山形大学人文社会科学部附属研究所

山形大学人文社会科学部附属研究所

ホーム > 研究所 > やまがた地域社会研究所:安達峰一郎研究資料室

安達峰一郎研究資料室について

 安達峰一郎(1869年〜1934年)は、山形県山辺町に生まれ、明治・大正・昭和期にかけて外交官として活躍し、アジア人初の常設国際司法裁判所長を務めました。国際平和と正義を追求した、第二次世界大戦前の日本を代表する第一級の国際人でした。

 安達峰一郎については、これまで伝記的研究や国際法分野を中心にした個別的研究が行なわれてきましたが、青少年期の精神形成時代、外交官としての活動、国際連盟における活動、常設国際司法裁判所裁判官としての活動等を総合的にかつ学術的に研究する点では不十分さが残っていました。そこで、山形大学では、安達峰一郎研究プロジェクトを企画し、総勢10名の国際法・外交史研究者による共同研究の成果として、『安達峰一郎―日本の外交官から世界の裁判官へ―』(柳原正治・篠原初枝編著、東京大学出版会、2017年)を刊行しました。「安達峰一郎研究資料室」は、この成果を継承し、山形大学人文社会科学部が安達峰一郎研究のさらなる発展のために設置するものです。

 安達峰一郎の外交官としての活動、常設国際司法裁判所裁判官としての活動は長期にわたり、これらに関連する資料は国内外に膨大にあります。「安達峰一郎研究資料室」では、在東京安達峰一郎記念財団、在山辺町安達峰一郎顕彰会、先の安達峰一郎研究プロジェクト参加メンバーの協力を得て、安達峰一郎研究をさらに進めるための情報交流拠点づくりを行います。また、安達峰一郎の様々な業績を、高校生・大学生を始め、一般の方にもわかりやすく伝える事業も行います。これらを通じて、安達峰一郎が求めた法による平和と正義の精神を発展させる一助となることを目指しています。

安達峰一郎について

山辺町教育委員会(安達峰一郎博士顕彰会)提供

 安達峰一郎は、1869年(明治二年)に現在の山形県山辺町に生まれました。祖父や父の影響で幼少のころから勉学に励む一方で、腕白ぶりを示すエピソードも残されているようです。その後、1881年に設立された山形法律学社に入塾し、山形県中学師範学予備科を経て、法学をさらに学ぶために1884年に上京しました。司法省法学校では、特にフランス語の習得に努め、1889年に帝国大学法科大学法律学科に入学し、法律のなかでも国際法を中心に勉強しました。この間、ボアソナードに民法を学び、また司法省法律顧問であったパテルノストロが明治法律学校で行う国際法の講義の通訳・翻訳を行うなど、当時のお雇い外国人による大きな影響をうかがうことができます。

 1892年には外務省に入省し、1930年に大使を免ぜられるまで、38年間の外交官人生が始まります。38年間のうち、3回の本省勤務(1892年~1893年、1903年~1908年、1915年~1917年)を除いて、30年弱をイタリア、フランス、メキシコ、そしてベルギーの在外公館勤務で過ごしています。外交官としての業績は多数ありますが、まずは、日露戦争後のポーツマス講和会議に全権委員随員として条約案起草の難しい交渉をまとめたこと、ベルギー公使(後に大使)として、またフランス大使として二国間関係の構築に力を尽くしたことを指摘しなければなりません。これらの公使・大使時代に、日本外交における国際協調派外交官としての立ち位置を形成していったということができるでしょう。

 他方で、ベルギー・フランス大使時代には、多国間的な場においても目覚ましい業績を上げています。第1次大戦後のパリ講和会議では全権委員随員(代表代理)として活躍し、1920年に国際連盟が発足してからは、連盟総会(1921年~1929年)や連盟理事会(1927年~1929年)の日本代表として、様々な会議の議長・委員長などの要職を務めています。ある国際関係史研究者によれば、「安達は、常に礼儀正しく、端正に身なりを整えた当時の日本のエリートの一員であった。数々の問題に機敏に対応し、安達は1920年代の連盟を軌道に載せた一人であったのである。」と評価されています。現在の国際連合につながる、人類初の一般的平和維持機構である国際連盟の発展に彼が様々に貢献したことは確かです。

 そして、1930年には国際連盟における選挙で常設国際司法裁判所の判事に選出され(トップ当選)、就任当初から3年の任期で所長も務めました。アジア人初の所長であることはもちろん、判事就任一年目から所長を務めたことも注目されます。ちなみに、1920年に同裁判所を設立する条約の起草が法律家諮問委員会によって行われましたが、安達はその委員でもありました。これらに象徴されるように、確かに彼による学術的な論文・著作の数は多くありませんが、国際法学者としても卓越した能力を評価されていたと考えられます。

 国際紛争を裁判によって解決するという画期的な試みが本当にうまくいくのかどうか、誰も確信を持てなかった時期に所長を務めるというのは大変な激務であったかと思われます。まして、1931年9月に満州事変が勃発し、日中間の紛争がハーグやジュネーヴでも関心を集めるなかで、安達が頭を悩ませていたことは確かです。満州事変に対して、そしてより広い意味では国際紛争を裁判によって解決するということに対して、彼がどのような考えをもっていたかはまだまだ謎として残されています。

 日本は満州事変後、国際連盟からの脱退を通告しますが、そうしたことからくる重圧もあって1934年に病に倒れ、オランダのアムステルダムで65歳の生涯を閉じました。そして、オランダと常設国際司法裁判所による合同葬が行われました。安達の妻鏡子は、その後第2次大戦の混乱もあってベルギーのブリュッセルに留まり、帰国したのは1958年でした。安達の書簡・史料が現在でも膨大に残されているのは、鏡子夫人がしっかりと保存し、帰国時に持ち帰ってきたことによるところが大きいと言えます。

ページトップへ

ページトップへ

サイトマップを閉じる ▲