山形大学人文社会科学部附属研究所

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資料室ブログ

このブログは、高校生・大学生、一般の方に、外交官・常設国際司法裁判所裁判官として活躍した安達峰一郎の「国際法にもとづく平和と正義」の精神を広く知って頂くために設けました。安達峰一郎に関するイベント等の情報、安達峰一郎の人となりや業績等に関わる資料紹介、コラムやエッセイ、今日の国際関係に関わる記事等を随時配信していきます。

安達峰一郎と石井菊次郎-4

投稿日:2019年10月28日 投稿者:山形大学名誉教授 北川 忠明

 二番目は「上部シレジア地方のドイツ・ポーランド国境画定問題とドイツ少数民族問題」に関連しています。第一次世界大戦後ポーランド独立とともにヨーロッパを揺るがす大問題になったのが、有数の工業地域を含む上部シレジア地方の帰属問題です。当初、べルサイユ 条約の原案では,ポーランドに一括帰属することになっていましたが、ドイツが抗議し,イギリスのロイド・ジョージのイニシャチブにより、フランスの反対を押し切って、住民投票にかける規定になりました。住民投票は行われますが、不満を持ったポーランド住民の蜂起が三度起こり、収拾がつかなくなります。そこでフランスのブリアン外相は連盟理事会に付託することを考えます。この理事会の議長を務めたのが石井です。連盟理事会は調査委員会を設置して、国境確定案を検討の上取りまとめ、10月に承認となります。
 この国境確定案はポーランド側に有利なものでした。実は、日英同盟が生きていたこの頃、日本政府はイギリスと協調しながらドイツに有利に帰属をはかろうとしていましたが、石井は、その頃連合国最高会議に出席するたびに、フランスからは日本はイギリスに追随しすぎると批判を受けていました。また、石井は極東においてドイツが復興してきた時に日本にとっては脅威になると懸念して、フランスの中の強硬な反ドイツ派には与しないが、穏健な反ドイツ派と連携することを選んだようで、ドイツが絡む時にはフランス寄りの立場をとることが多かったようです(石井菊次郎「英国の対独外交」(昭和14年執筆)、『外交随想:石井菊次郎遺稿』所収)。ブリアンに依頼された時に、上部シレジア問題を理事会で扱うことを引き受けた背景事情です。連盟外交は多国間協調が基本ではありますが、政治的思惑が働いた偏りがかかっていた感はあります。
 国境画定案が理事会で採択され、ひとまず事態は収束しますが、やはりポーランド寄りの国境画定ですから、石井の名誉のために付け加えておきますが、これに対する代償として「少数民族の保護の制度」の必要を指摘する勧告がつけられていました。しかし、石井は、ドイツからは散々非難を浴びるようになります。
 さて、その後、1925年にロカルノ条約が締結され、1926年にはドイツが国際連盟に参加し、常任理事国になることが承認されます。これに反発するポーランド等を非常任理事国を増やして宥めるのに苦労したのも理事会議長を務めた石井ですが、ここは割愛します。
 このような変化の中で、1928 年6月、ドイツ人少数民族の学校問題が国際連盟に提議されるのです。当初、国際連盟事務次長の杉村陽太郎を介して日本で引き受けてもらいたいという話が持ってこられた時、安達は相当考え込んだようです。ヨーロッパの少数民族問題は「ヨーロッパの政治構造における癌」のようなものととらえていたからで、特にドイツ・ポーランド問題に関わる話ですから極めて深刻でセンシティブな問題です。
 結局9月理事会では安達が委員会委員・報告者を引き受けますが、その後の理事会では、提議の手続き等をめぐってドイツとポーランドの対立は激しく、ドイツ代表のストレーゼマンが激昂する場面もあります。安達は、1929年3月の連盟理事会で三人委員会委員をA.チェンバレン英国代表に委嘱しますが、少数民族問題に関心が深いチェンバレンと協力しながら提案を作成し、問題の解決を図ろうとしているように見受けられます。ブリアンはそれをサポートするような位置でしょうか。委員会提案はポーランド側に不利な、つまりドイツ人少数民族保護を優先したもので6月の理事会で報告され、承認を得ますが、このときの安達の進め方は篠原初枝「国際連盟理事会における安達峰一郎」(柳原正治・篠原初枝編『安達峰一郎-日本の外交官から世界の外交官へ』、東京大学出版会、2017年)を参照してください。
 ドイツが連盟に加盟し、常任理事国になることによっても、独仏確執は場所を変えて続くわけですから、初期の石井のフランス寄り・ポーランド寄りを踏襲するというわけにいきませんし、少数民族問題は「癌」のような深刻さを呈しています。なんとか多国間での協調を偏りなく進めて、権利問題を優先して「公平」な解決を図らねばならない。駐仏大使時代の安達書簡(安達峰一郎記念財団所蔵紅ファイル)を見ていると、欧州大陸の問題からは距離を置こうとしたイギリスの保守党政権の外相チェンバレンを引き入れながら、少数民族の権利保護という多文化主義の問題に通じるような課題の解決を図ったように見受けられます。
 なお付け加えて置きますが、安達は連盟では多国間の均衡を重視しつつも、連盟外では日仏協調強化にも務め、ブリアンの右腕ルイ・ルシュールと協力して「日仏議員同盟会議」を作るよう努力しています。日本側のメンバーには石井も幣原も入り、リベラルな国際協調派を集めようとしたように見えますが、これも外交官としての安達の卓越したところでしょう。

安達峰一郎と石井菊次郎-3

投稿日:2019年10月25日 投稿者:山形大学名誉教授 北川 忠明

 石井と安達は国際連盟外交を支えた国際協調派最強コンビと言っても過言ではないように思われるのですが、二人が書き残したもの、または講演記録等を突き合わせてみると微妙に違うなと感じるところがあります。これから3回にわたって、この点に触れて行こうと思います。
 一つは国際民主主義への対応です。国際連盟は、19世紀のウィーン会議以来の会議外交を引き継いで四大国を中心とした理事会と、ドイツ帝国等の解体から生まれた独立国家もメンバーとなる総会によって構成されます。問題になるのは、理事会も総会も規約上は「世界平和に影響する一切の事項」を処理する権限に違いがないことで、両者の関係をどう考えるかということです。
 石井は、『外交余禄』(1930年)の中で、理事会と総会は「相互的に独立なる而して全然同等なる権能を有する二個の会議体」であり、「総会は国際平和の樹立を分担し其努力は将来に係り建設的である、随って宣伝に由りて世界の輿論を培養し教育することも其任務の一部とする所である。理事会も亦……、現に起りたる国際紛争を平和的妥協的に解決するを以て当面の任務とするのである」と述べています。対等だが、機能において異なると言うのです。
 安達は、1930年に帰国の際行った講演「国際連盟の現状と常設国際裁判所判事の来秋総選挙」の中で、「総会は空気を養成する所であり、理事会に対して希望を表明する機関であります。……この会議には、各国の最も責任ある全権、即ち首相、外相、若しくは蔵相が列席して、種々討論して、理事会その他の団体に指導的な訓辞を与えます」 と特徴的な表現をしています。石井と大差ないように見えるかも知れませんが、理事会に対する総会の意見や希望を尊重する必要があるというニュアンスが強く出ていないでしょうか。
 石井も安達も世代的にはそれほど違いませんし、日本が一等国になることを目ざしてきたことにも違いはないと思いますが、大国としての日本の地位の向上を優先する石井に対して、安達はより小国に対してシンパシーを持っていたように思います。
 安達は外交官になった当初任地イタリアに航海した時に植民地に対する欧州諸国の横暴を記していますし、駐メキシコ公使時代にもメキシコに対する米国の横暴を目の当たりにしています。また10年に及ぶ駐ベルギー公使・大使経験もあって、小国に対する同情心を捨てることはなかったように思えます。
 石井と安達の微妙な差異は、コルフ島事件(1923年8月 27日ギリシア=アルバニア国境画定委員会で活動していたイタリアのエンリコ・テリーニ将軍とそのスタッフがギリシア領で殺され,これにイタリアが報復して、コルフ島を砲撃・占拠した事件)を巡っても、見られるように思います。
 この時、石井は連盟理事会議長の任にあって、連盟へのギリシャの提訴への対応に苦慮していました。常任理事国イタリアが小国ギリシャに対して起こした武力紛争だからです。イタリアは理事会審査を拒否します。石井は、イタリアの行動は弁護の余地なきものと考えたものの、同様のことが将来中国で起こるかもしれない(実際に満州事変で起こりました)と考えてイタリア批判を控え、扱いをベルサイユ条約実施を担当する「大使会議」に委ねたのですが、小国が多数の連盟総会ではイタリアへの非難轟々です。
 ですから、紛争の決着後、検証のための「法律家委員会」が設置され(1923年12月)、安達が委員長になりますが、手続き的には連盟規約第12条、第15条に抵触する可能性があると考えていたようで、ギリシャ側に有利な判断をしていたようです。安達が「常に小國代表の指導者となり、大國代表を向ふに廻して常に自由・公平・正義の見地より、日本帝國を背景として奮闘」(川島信太郎「恩師故安達博士を偲ぶ」、『外交時報』第七三卷第七二七号、1935年)したとする見方もありますが、石井とは違った面があると感じます。「大国面(づら)をしない大国の外交」(栗山尚一『戦後日本外交』(岩波現代選書)中の表現)というところでしょうか。

安達峰一郎と石井菊次郎-2

投稿日:2019年10月23日 投稿者:山形大学名誉教授 北川 忠明

 言うまでもありませんが、国際連盟と常設国際司法裁判所は、戦争違法化に向けて集団安全保障を制度化した初めての画期的試みでした。しかし、短期間に作られたこともあって、仲裁裁判や国際司法裁判における応訴義務(他国から訴えがあった時に応じる義務)導入に関する難問等が積み残されていました。そのため、1924年にイギリスで労働党政権、フランスで共和左派政権が誕生し、侵略戦争禁止を目的として国際連盟規約の不備を是正しようとする動きが急速に出てきて、同年の国際連盟総会でジュネーブ議定書が採択されることになります。
 このジュネーブ議定書審議過程で問題になったのが、安達の名が結び付いている「日本事件」です。
 議定書策定の発端は、仲裁裁判と国際司法裁判に応訴義務を導入・拡大して、紛争の平和的解決の実効性を高めようとするイギリスとフランスからの提案です。国際連盟総会日本代表の石井と安達はこれを時期尚早と考えていたし、規約や規程の不備を議定書という形で補うという考え方には消極的でした。幣原喜重郎外相も外務省も従来の方針通り、応訴義務には否定的ですが、石井と安達は、応訴義務導入は不可避の情勢と考えます。幣原外相は、応訴義務導入がやむを得ないとしても国家の名誉・独立、「緊切ナル利益」等に関する政治的問題は対象外とすること、また、国際連盟規約の第15条第8項に「国内管轄」事項と認められた問題は連盟の審査の管轄外にするというのは応訴義務拡大に反するではないかと問題を指摘します。
 石井と安達はこれを承けて、議定書原案への修正案を安達提案として提案し、「日本事件」なるものを惹起するのです。詳しいことは専門的な研究を見て頂きたいのですが、簡単に言うと、連盟規約第15条第8項の「国内管轄」事項に関する規定では、連盟理事会に紛争事案が提議された時に、これが国内管轄事項だと審査されれば、理事会は関与しないことになっているのですが、議定書案では、侵略国の定義問題に関わって、国際連盟の管轄外とされた事項をめぐり、一方の国が最終的に戦争に訴えた場合、つまり先に攻撃した場合、その国は侵略国になり、国際連盟の共同制裁を受けるとされていました。安達や石井が持ち出したのは、アメリカにおいて移民差別が行われ(1924年に排日移民法が成立しています)、差別撤廃をめぐって紛争になったときに、そのまま放置するのかということです。放置しながら、武力行使にいたった場合、侵略として共同制裁を加える。これはおかしいので、国際連盟がこの種の紛争に関与すべきだという趣旨で、安達は議定書案への修正案を出したのです。この問題が紛糾して「日本事件」とまで言われるようになったのですが、結局は修正案の趣旨が認められて、国内管轄事項をめぐる紛争でも連盟総会と理事会が関与することになりました。
 この結果議定書が採択され落着するのですが、ある意味で安達と石井のコンビの勝利と言ってよいでしょう。安達峰一郎博士顕彰会『国際法に基づく平和と正義を求めた安達峰一郎』に収録された珍田捨巳(パリ講和会議の全権の一人でもあり、侍従長も務めました)の大正15年(1926年)4月11日付け安達宛書簡では、「国際連盟に関する御活動については、先般一時帰省の新渡戸博士等より詳細承り、影ながら敬服の感に堪えず候。同博士の如きは、石井安達両大使は実に我国宝なりと口を極めて推称いたし居り候…」(134頁)とあります。おそらく、ジュネーブ平和議定書問題における石井と安達の活躍も含めて評していると思いますが、新渡戸をして石井安達は「我国宝」と言わしめたほどの、最高のコンビであったと思います。

安達峰一郎と石井菊次郎―1

投稿日:2019年10月21日 投稿者:山形大学名誉教授 北川 忠明

 石井・ランシング協定(1917年11月)によって歴史に名を残す石井菊次郎(1866-1945)は、小村寿太郎以後の日本の代表的な外交官の一人です。安達峰一郎よりも3歳年長で、1920年6月から1927年12月に外務省を退職するまで、ほぼ7年半に渡り駐仏大使を務め、また国際連盟理事会と総会の日本代表も務めました。安達は10年ほど駐ベルギー公使・大使を務め、その間、石井とともに総会の日本代表を、石井が不在のときは国際連盟理事会代表を務めました。そして、石井の後任として駐仏大使を2年半務めます。
 石井大使の後任となった安達は、パリ着任後、国際法学者で日本外務省顧問であったトーマス・ベイティ(Thomas BATY)宛書簡(安達峰一郎記念財団所蔵「紅ファイル1–455」)の中で、石井について次のように述べています。

 「セーヌの畔に居を構えてから私は非常に大きな心配事を抱えています。それは、私の友人である偉大な石井子爵の残したものを継承するということです。 ……私は当然ながら彼の代わりにはなるとは思いません。私が最大限望みうるものは、日本とフランスとの関係を緊密に強化することを目的として、また正義に基づく世界平和の維持と強化のために、石井子爵によって明確に開かれた道に可能な限り近づくことです。」

 安達は、石井を日仏外交と国際連盟外交を支えた人物として極めて高く評価しています。他方、石井は安達の没後、安達を次のように評しています。

 「一つ私は、どうしても安達君について今もって分からぬことがあるのであります。その長い間、つらつら安達君の働きぶりを見ますというと、ことに働いた結果を見ますというと、実にこの安達君の仕事というものは結果が不思議なのであります。  非常に先生のいうたこと、なしたことが外国人の気に入るのであります。不思議というと、余りなしたこと、いうたことがよくないのに、結果が不思議と思うかもしれませんが、いいには相違ない。いいけれども、どうしてああいう結果を得るかということは、私にはどうもわからぬ。」
 「だんだん私は考えて見ましたが、もし日本に、国際人というのは名が悪いかもしれないが、国際的の人物がいるというならば、まず安達君だろうと私は思うのです。この安達君が世界の人の博覧会、つまり国際連盟、中南米から世界中ことごとくの人の選抜せられた所に集まって行って、その間に人望をおさめ、その関心をおさめ、尊敬をおさめた。これは日本にとっての宝だと、私は始終思っておったのであります。」(安達峰一郎記念館『世界の良心 安達峰一郎博士』、1969年、149-150頁)

 石井は、安達を国際人の筆頭に置き、国際連盟での活躍に賛辞を贈っていますが、日本の対国際連盟外交は石井と安達のコンビによって牽引されたと言えるでしょう。それを如実に示したのが、1924年の「国際紛争の平和的解決のための議定書」(ジュネーブ議定書)審議です。

1900年パリ万博前後の安達夫妻(その2)―岡村司『西遊日誌』と『安井てつ書簡集』から―

投稿日:2019年6月19日 投稿者:山形大学人文社会科学部教授 高橋 良彰

7、まとめに代えて―――パリ散策
 これまで、岡村の日誌を素材に安達夫妻と岡村・安井との交流を見てきた。最後に、日誌にも出てくる住所を挙げながら、パリ散策のための情報を提供して終わりにしたい。100年以上前の住所であるが、現在もパリの街並みは大きくは変わっていない。ここに登場した人たちが歩いた街並みを訪ねる機会があったら(行かなくとも今ではWeb上で歩き回ることもできるだろうが)是非訪ねていただければ幸いである。
 まずは、安達夫妻の住所について。
1902年発行の
Annuaire de la Société franco-japonaise de Parisの9頁に
Liste alphabétique des membres de la Société franco-japonaise de Paris
と題するリストがあり(下記のGallicaのPage Paginationではvue31/146が表示される2つ目の「9」の頁。検索としては同じ雑誌になる)、そこに、1900年の安達の住所として
7, avenue de la Grande-Armée.
とある。
 ちなみに、この雑誌はパリ日仏協会の結成からの会報にあたるが、とりわけ、1 9 0 3年3月1 4日に行われた安達が日本に帰国する送別会の様子を伝えた部分が面白く、安達のスケッチ(47頁)がその演説(48頁)とともに残されている。こちらの雑誌の表題は
Bulletin de la Société franco-japonaise de Paris.
 であり、フランス国家図書館(BnF)が運営するGallicaから検索すると、先の雑誌と同じもので、その1905年発行分としてみることができる。右下のPage Paginationとある部分から47と数字がある部分に安達の肖像スケッチが、演説はその次の頁になる。その発行は1903年の部分にあたる。
 なお、地番は、5の可能性もある(山本順二『漱石のパリ日記』87頁)。また、両方の住宅を居所に使っていた可能性もあろう。
 この当時のパリ日本公使館は、(もっと正式な証拠資料はあるのだろうが)
Guide offert par les grands magasins de la ville de St-Denis/ Exposition universelle, 1900
の36頁によると、
75, avenue Marceau.
である。この本もGallicaで検索可能になっている。
 したがって、 安達の住居からは徒歩で行けば11分の距離である。極めて近い位置にあることがわかる。
 次いで、岡村の住所。
 岡村は、まず「センシュルピース」旅館に明治32年(1899年)10月23日より滞在し、大学近くの下宿を探した。この旅館(ホテル)の住所はわからないが、「センシュルピース」とは、有名な教会Église Saint-Sulpiceのことであり、その所在地は、パリ6区・リュクサンブール公園のすぐ北である。そして、その後に住んだパリ大学近くの下宿は、バポーム夫人が営む六階の部屋で、10月31日からはここに住むことになる。住所は、
43 Rue des Écoles
であり、ここは、現在Hôtel Claude Bernard Saint-Germainと言うホテルとなっているようである。私には少し高いが一度泊まってみたい便利な場所にあると言える。というのも、いわゆるカルチェラタン、パリ5区にあたり、パリ・ソルボンヌ大学のすぐ近く、パンテノンの向かい側にある法学部の建物にもすぐの場所となっているからである。ちなみに、ここには後に箕作元八が住むことになるが、大家のバポーム夫人とは折り合いが悪く、退去の際に大げんかしていることが箕作の日記に見える(前掲『滞欧「箙梅日記」』252頁および解説の328頁)。クリスマスのお祝いを贈った繊細な神経の岡村と箕作との性格の違いが良く分かるエピソードである。
 この住所からは、歩けば1時間11分ほどで安達夫妻の家に着くことができる。タクシーで行けば(当時は簡単に捕まるとは思えないが、馬車はもちろん自動車もあった)、シャンゼリゼを通って30分弱の距離という(こちらは現在の時間でだが)。
 岡村は、その後郊外に移り住む。1900年4月26日よりパリ郊外のSaint-Cloudに転居し、その住所は
Rue des Écoles , Saint-Cloud
であり、ブローニュの森に近い。その1番地ならば歩いて安達夫妻の住所まで1時間40分ほどである。パリ万博の頃はこちらの住所に移転しており、安井や安達夫妻が息子の太郎を連れて訪ねてきたのはこの地である。帰りに公園を散歩しブローニュで別れたというのは、そこから安達夫妻の住処へ向かう途中で別れたということであろう。それまでのパリ大学付近から安達夫妻の住居までの距離と比べれば、徒歩でなら30分ほど遠くになったわけである。ちなみに大学までは徒歩で2時間15分はかかる距離である。つまり、この時期になると毎日大学に通うことはなかったということなのだろう。
 ちなみに、岡村がパリに着いてすぐに訪ねたお雇い外国人アッペールについては、その住所が知られている。現在の5区の
9 Rue du Val de Grâce
のようである(西堀昭『増訂版日仏文化交流史の研究』119頁による)。岡村が最初に住んだ地区のすぐそばだったことになり、センシュルピース教会やパリ大学にも近い。
 次いで、安井てつの滞在先は、番地はないが、通りの名前は解る。
Rue de la Pompe
一番近ければ(186番地)、安達夫妻の住居まで徒歩で10分ほどの距離になろう。「日本公使館の近傍」とされるように、公使館までは徒歩で15分ほどの距離である。
 万国博覧会の会場は、「11889年の万博会場に加え、セーヌ川右岸、ヴァンセンヌの森も会場とされた。シャンゼリゼに新たにグラン・パレとプチ・パレが建設され、セーヌ川対岸のアンヴァリッドとの間は壮麗なアレクサンドル三世橋でつながれた」とされている(国立国会図書館のwebであるhttps://www.ndl.go.jp/exposition/s1/1900.htmlから)。
グラン・パレは
3 Avenue du Général Eisenhower, 75008 Paris
プチ・パレは
Avenue Winston Churchill, 75008 Paris
にあり、その北側にシャンゼリゼ。何れにせよ、安井の宿からも遠くはない。
 日本館が置かれたのは、トロカデロ庭園Jardins du Trocadéroであり、エッフェル塔の北西、セーヌ川を渡った先に広がっているシャイヨー宮付近。
「会場は先の2つの会場をはじめアンバリッド、シャイヨー宮、シャンドマルスのエッフェル塔とシャンゼリゼ一帯と、ヴァンセンヌの森一帯でした」とはhttps://parismusee.exblog.jp/13217422/による。

 最後に、私が研究しているボアソナードについても一言しておきたい。
 ボアソナードはこの時期ニースとカンヌの中間地点である南仏のアンチープで生活していた。現在のジュアン・レ・パン駅Gare de Juan-les-Pinsからしばらく歩いたところにある別荘であったという(現在Hôtel La Villa Cap d'Antibesという四つ星ホテルになっているようである)。もっとも、隠遁していたわけでなく、ほぼ一年に一度はパリに行っていた。このことは、教え子のひとりである杉村虎一宛に送った手紙から分かる。杉村は司法省法学校正則一期生(したがって宮城浩蔵と同期)。外交官となり、長くロシアに生活し、この時期もサンクトペテルブルグに居た。その杉村宛の手紙が明治大学に残されており、村上一博氏によって活字におこされている(Meiji law journal第8号と第9号にあるがこの時期のものは後者に収められている)。これらによると、ボアソナードは、1900年の夏、7月から9月にかけて、パリに滞在していた。そのボアソナードのパリ滞在中の住所は、
17 Rue Michel Ange
である。そこにはおそらく妻のアンリエットJulie Henrietteと息子のポールPaul Loius Henriが住んでいたと思われる(娘のLouise Henrietteはボアソナード ともにアンチープに住んでいた)。なお、ボアソナード の死亡証書がアンチープの文書館に残されており、以下のアドレスで見ることができる。
https://archives.ville-antibes.fr/4DCGI/Web_RegistreActes4E15xzx54137*191/1/ILUMP11215
 ボアソナードがこの時期にパリに来ていたとすれば岡村の日誌に何か出てきそうであるが、ボアソナードの友人と会ったという記述はあるものの、本人と会ったという記述はない(ただし、活字におこされた日誌は7月までのものでその後に会った可能性はあろう)。岡村との繋がりはあまりなかったのかもしれない。しかし、安達との繋がりは濃かったと思われる。したがって、公使館を訪ね、安達と会った可能性は高いのではなかろうか。
 個人的には、ボアソナードがパリ万博を見学していたということが分かり、感慨深いものがある。ボアソナードはその前の1889年パリ万博を日本から一時帰国して見学しておりエッフェル塔を眺めたと思われるのだが、1900年のパリ万博の時にはすでにエレベーターが取り付けられていたという。高齢ではあったが好奇心の強いボアソナードの事である、エッフェル塔にも登ったのではなかろうか。あるいは安達と一緒に、などと想像してみるのも楽しい。
 そんなことを考えながら、パリの街を散策するのも一興ではないだろうか。
(了)

ボアソナード の死亡証書

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