山形大学人文社会科学部附属研究所

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資料室ブログ

このブログは、高校生・大学生、一般の方に、外交官・常設国際司法裁判所裁判官として活躍した安達峰一郎の「国際法にもとづく平和と正義」の精神を広く知って頂くために設けました。安達峰一郎に関するイベント等の情報、安達峰一郎の人となりや業績等に関わる資料紹介、コラムやエッセイ、今日の国際関係に関わる記事等を随時配信していきます。

駐メキシコ公使時代の安達峰一郎―安達峰一郎とウッドロー・ウィルソン―(1) 安達峰一郎の寺内正毅宛書簡から

投稿日:2018年9月28日 投稿者:山形大学人文社会科学部教授 北川忠明

 パリ講和会議を目前にした1918年の暮れ、当時駐ベルギー公使であった安達峰一郎は、寺内正毅(1852―1919)宛の書簡(12月20日付け)を書いています。この書簡は『国際法にもとづく平和と正義を求めた安達峰一郎』(安達峰一郎博士顕彰会編、2011年。以下『書簡集』と略記します。)に掲載されていて、故安達尚弘氏が「安達峰一郎の「そのとき」 安達の世界的活躍を決定づけた一通の手紙」(『くわご』9号、2008年6月)で解説を加えていますし、安達に関する研究論文の多くが言及しているものです。これは安達の書簡の中でも特に気迫のこもったものです。安達夫人(安達鏡子)の話では、安達がその生涯において激昂した時が二度あったようで、一つは日仏通商航海条約改正の折に、交渉多難と見て栗野真一郎駐仏大使が帰国し、交渉が安達に委ねられた時。もう一つは、安達がパリ講和会議の日本代表団メンバーの中に当初入っていなかった時のことのようです(『安達峰一郎 人と業績』、財団法人・安達峰一郎記念財団、2009年、33頁)。激昂した安達が、原敬内閣の内田康哉外相に対して代表団に入れるよう前首相の寺内に取り次ぎを頼んだのが、この書簡です。これが功を奏して、安達は代表団メンバーとして参加することになったようです。ですから、この書簡なくして後に国際連盟で活躍し、常設国際司法裁判所長まで上り詰める安達は生まれなかったということになります。
 この寺内宛書簡を読んで先ず気になったのは、冒頭の挨拶文の後にある次の文章です。(これから引用する場合は、旧字や旧仮名遣いは現代的に直しています。)

 「時局は意外にも急転直下して、世界は、ウィルソン米国大統領の独(ひとり)舞台と相成申候(あいなりもうしそうろう)。此の大驕挙(きょうきょ)との衝突を避けつつ、我国の名誉と利権とを擁護し、我が同胞の為め、永遠なる将来を確保すること、是正に我が外交の真諦(しんてい)にこれ有るべく、賢閣等元勲の責務、極めて重大なることと相信申候(あいしんじもうしそうろう)。」

 第一次世界大戦休戦後、時局は急転直下してウィルソン大統領の独り舞台となった。ウィルソンの「大驕挙(きょうきょ)」に対して、それとの衝突を避けつつ、日本の国益をいかにして 守るかが課題だというのです。おそらくこの「大驕挙(きょうきょ)」というのは、ウィルソンが敗戦国ドイツに対してだけでなく連合国に対しても、国際連盟の設立を含む「14ヵ条」を講和条件にしたことを指しているのではないかと思われます。
 ウィルソン提案とくに国際連盟設立参加については、日本政府も大慌てで、11月に外交調査会で、喧々諤々の議論になったことは知られている通りです。同じ頃、ウィルソン提案に批判的な若き近衛文麿が「英米本位の平和主義を排す」という有名な論説を書いています。安達の書簡では「此の大驕挙(きょうきょ)との衝突を避けつつ」とありますから、国際連盟設立は当然の前提としてということだと思いますし、国際連盟を舞台にして活躍した後年の安達は、「大戦後、米国の故大統領ウィルソン君の時勢に適合したる天才的の創意の結果」、国際連盟が生まれたのだと評価しています(「国際連盟の現状と今後の課題」、1930年5月16日の講演。前掲『書簡集』に収録)。しかし、当初ウィルソンが連盟創設を進めた時には、「過半数の人は――私もその一人ですが、其(その)健全なる思想であることについて頗(すこぶ)る疑いを持って居りました」(「世界大戦後の外交と二箇の重要事件」、『銀行通信録』第89巻第532号、1930年)とも述べていて、国際連盟構想には懐疑的であったようです。が、それにしても、後に対国際連盟外交を牽引する安達が、ウィルソンの提案を「大驕挙(きょうきょ)」としていることには、意外感がありました。驕はおごり高ぶるの意味で、そこに「大」がつきます。どうして、安達はこのような表現をしたのでしょうか。
 寺内正毅が反米親ロ路線をとっていた元老・山県有朋とともに第四回日露協約締結(1916年7月)を推進した人物であったことも一つの理由として考えられますが、安達の駐メキシコ公使就任がちょうどメキシコ革命動乱の時期で、ウィルソン大統領の就任時期とほぼ重なっていることにも関係しているように思います。結論を先取りして言うと、「宣教師外交」と言われるウィルソンの理念先行外交がもつ一種の危うさに対する安達の警戒感の現れではないかと思われるのです。
 次回から、『日本外交文書』(大正二年、三年、四年)に収録されている安達の公電等を手がかりに、駐メキシコ公使時代の安達とウィルン大統領との接点を探ってみたいと思います。

注:外交調査会の正式名称は臨時外交調査委員会で、寺内首相が1917年6月6日に設置しました。これは、ワシントン会議の後、1922年9月18日に加藤友三郎内閣で廃止されましたが、超党派的な外交上の輔弼機関として、日本の外交政策の決定に大きな役割を果たしました。寺内を初代の総裁として、外務大臣、内務大臣、陸軍大臣、海軍大臣のほか、枢密院からも牧野伸顕や伊東巳代治たちが入り、パリ講和会議や国際連盟への対応を協議しました。

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