山形大学人文社会科学部附属研究所

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資料室ブログ

このブログは、高校生・大学生、一般の方に、外交官・常設国際司法裁判所裁判官として活躍した安達峰一郎の「国際法にもとづく平和と正義」の精神を広く知って頂くために設けました。安達峰一郎に関するイベント等の情報、安達峰一郎の人となりや業績等に関わる資料紹介、コラムやエッセイ、今日の国際関係に関わる記事等を随時配信していきます。

駐メキシコ公使時代の安達峰一郎―安達峰一郎とウッドロー・ウィルソン―(7)まとめにかえて

投稿日:2018年10月19日 投稿者:山形大学人文社会科学部教授 北川忠明

 ウィルソン外交は、1901年から1909年迄2期大統領であったセオドア・ルーズベルトの「棍棒外交」と言われるような実力本位の外交とは異なって「宣教師外交」と言われています。ウィルソンは宣教師であったことはないようですが、メキシコをはじめとした中米諸国への介入は「立憲政治を相手国に承知させようとする一種の宗教的義務感をともなっていた」とされています。(長沼秀世『ウィルソン』、山川出版社、2013年、49頁)。
 この「宣教師外交」の帰結はどうだったか。補足としてウエルタ政府倒壊後の結末も見ておきましょう。
 1914年夏には第一次世界大戦が勃発していますから、ウィルソンはイギリスと関係の深いメキシコとの関係悪化を避けるため、ウエルタ政府倒壊後は干渉を抑制します。しかし、メキシコではビリャ派、サパタ派とカランサ派の内戦が続きます。アメリカでもウィルソン批判が高まり、ウィルソンは1915年6月に「平和勧告」を行います。この和平提案が受け入れられなければ、アメリカが介入するという脅し文句が付け加えられ、安達が帰国の途につく8月にはカランス派が勝利します。
 このウィルソンの勧告は、アメリカ国内からの批判、とくに「棍棒外交」で知られるセオドア・ルーズベルトのウィルソン批判を背景にして行われたようです。安達は、ルーズベルトが、このままではモンロー主義(欧州諸国がアメリカ大陸に干渉することを排除するかわりに、アメリカも欧州には干渉しないとする外交ドクトリン)を抛てるか(欧州諸国の介入を招くからという理由でしょう)、そうでなければ、かつて自らがキューバに対して行った(1906年にアメリカはキューバを占領下に置きました)のと同様にメキシコにも武力干渉を行い、アメリカ大陸における覇者としての米国の権威を世界に示すべきだと主張していることに触れています(加藤高明外相宛、1915年6月22日付け)。
 以上長くなりましたが、駐メキシコ公使時代の安達に関係する出来事の大筋を辿ってきました。メキシコでは1917年にカランサ政権のもとで当時最も民主主義的と言われた憲法が制定され、安達が予想したようにアメリカの「なぶり殺しになる」ということはなかったようです。しかし、革命動乱の渦中にあった安達は、立憲政治を確立するというそれ自体は批判の余地がない正当な理想であっても、高邁な理念を振りかざして、実情を無視した干渉がメキシコの革命動乱の泥沼化をもたらした一因と見ていたように思われます。
 なるほどウィルソンの「宣教師外交」はセオドア・ルーズベルトの「棍棒外交」とは対極のように思われます。しかし、安達が寺内正毅宛書簡でウィルソンの「大驕挙」と書いたとき、このメキシコ革命動乱時におけるウィルソンの「宣教師外交」がはらむある種の危険性が脳裏にあったのではないでしょうか。上部シレジアにおけるドイツ少数民族問題の解決に見られるような国際連盟日本代表時代における安達の行動スタイル、国際法にもとづいて紛争を当事者の言い分を粘り強く聞きながら解決していくという安達の外交スタイルは、このような経験も積んで磨かれていったのではないでしょうか。

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