山形大学人文社会科学部附属研究所

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資料室ブログ

このブログは、高校生・大学生、一般の方に、外交官・常設国際司法裁判所裁判官として活躍した安達峰一郎の「国際法にもとづく平和と正義」の精神を広く知って頂くために設けました。安達峰一郎に関するイベント等の情報、安達峰一郎の人となりや業績等に関わる資料紹介、コラムやエッセイ、今日の国際関係に関わる記事等を随時配信していきます。

1900年パリ万博前後の安達夫妻(その1)―岡村司『西遊日誌』から―

投稿日:2018年11月26日 投稿者:山形大学人文社会科学部教授 高橋 良彰 

1、はじめに
 安達峰一郎の司法省法学校からの同級生に、民法学者の岡村司がいる。岡村は、イエ制度批判などの業績で注目された著名な学者であるが、比較的若くして亡くなったことや、彼亡き後の民法研究が方法論的にも大きく変化していったことなどから、今ではいわば忘れられた民法学者となってしまった感がある。しかし、ボアソナードの最後の教え子とでもいった民法学者でもあり、ボアソナード民法典の研究者たる私としては、安達とともに興味を持つ対象である。
 その岡村が残した日記がある。司法省法学校入学直前の明治18年(1885年)から亡くなった大正11年(1922年)までのもので、とりわけ明治32年(1899年)から同34年(1901年)までの『西遊日誌』は、ヨーロッパ留学時の日記で、妻や家族宛の書簡も兼ねていたようで詳細なものとなっている[註1]。安達にこの種の日記があれば面白いのだが、赴任先では夫婦で過ごすことが多かったようで、わざわざ日記を認めて日々の様子を夫人に伝える必要はなかったということもできよう。他方、岡村の日記を読むとパリにおける安達峰一郎の様子が詳しく記されており、両者の交流を日ごとに読み取ることができる[註2]。そこで、1900年前後における安達の様子を、この日記から読み解いてみることにした。
 ところで、その過程で、興味深い人物に出会うこととなった。それは、岡村を「従兄」(いとこ)と呼ぶ、安井てつ、である。安井は、岡村の日記では「安井て津子」と記されているが、「安井哲」の表記も用いた人物であり、新渡戸稲造の後を継いで後の東京女子大の2代目学長に就任した女性教育者として名高い人であり、岡村に先立つ明治30年(1897年)からイギリスに留学していた。そして、その帰国前の最後の期間、万国博覧会を見学するためにパリを訪ねており、その前後の様子が友人への書簡 [註3] に伝えられている。実は、安井は高等師範学校女子師範学科卒業の一期生であり[註4]、安達の妻となった高澤鏡(呼び名は「かね」で「鏡子」とも表記される)[註5]の一つ先輩にあたり、鏡子夫人の話も書簡には出てくる。つまり、岡村司の『西遊日誌』と『安井てつ書簡集』をつなげていくと、二人の目から見たこの時期における安達峰一郎・鏡子夫妻の様子を浮き彫りにすることができことになる。夫妻と岡村・安井との交流については、これまであまり知られていないと思われるので、岡村司と安井てつの人柄を紹介しながら、二人から見た安達夫妻像を探ることとした。
 もっとも、このブログでは、まず、岡村の日記をもとに当時のパリ日本人社交界を管見したい(その1)。なぜなら、この時期のパリは、まだ開催前である万国博覧会一色であり、これを目当ての日本人も数多く訪れているからである。1900年パリ万博のテーマは「過去を振り返り20世紀を展望する」であったといわれるが、むしろ20世紀の幕開けを祝う国際博覧会であった。きらやかに着飾った婦人を伴った紳士がシルクハットにステッキを持ち、歩く歩道で移動するような華やかな映像も残されている。安達は、このパリ万博を日本としてサポートするためにパリに赴任している。そこで、安達夫妻の様子を語る前に、この時期のパリの雰囲気を紹介することとしたいからである。
 そのうえで、日をおいて「(その2)」として、安井がパリを訪れた1900(明治33)年5月を中心に、パリ万博周辺での安達夫妻の様子を描写したい。こちらがメインであるが、安達夫妻との接点から見える岡村司と安井てつについても紹介していくこととしよう。

註1 この当時、妻や子供と別れての単身留学においては詳細な日記を認め、これをやりとりした風習があったのかもしれない。例えば、岡村と留学先までの船旅をともにした箕作元八には滞欧日記が存在し、解説が付され公刊されている。井手文子・柴田三千雄編集・解説『箕作元八・滞欧「箙梅日記」』(1984)。箕作の留学は二度目のことで、一度目の際には日記は存在していないようなので、この日記は妻子宛てのものであったと考えられる。また、岡村から10年以上後のものではあるが、同じく民法の家族法分野の研究者として有名な穂積重遠(穂積陳重の息子で後に東大教授)も同様の日記を残している。穂積重行『欧米留学日記(1912〜1916年) 大正一法学者の出発』(1988・岩波書店)
註2 鈴木良・福井純子「史料紹介「岡村司『西遊日誌』(その一)」『立命館産業社会論集』1995年3月第30巻第4号(通巻83号)109頁以下、同「(その二)」同31巻第1号167頁以下、同「(その三)」同第2号127頁以下、同「(その四)」同3号183頁以下。
註3 青山なを『若き日のあと―――安井てつ書簡集』(1965・安井先生歿後二十年記念出版刊行会)
註4 明治23年(1890年)四月七日官報第2027号76頁参照。「女子師範学科卒業生」「安井てつ 東京府士族」として掲載されている。
註5 明治24年(1891年)三月二七日官報2319号290頁参照。同じく「女子師範学科卒業生」「高澤鏡 山形縣士族」として掲載されている。

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