ホーム > 人文社会科学部附属研究所 > やまがた地域社会研究所:安達峰一郎研究資料室 > 資料室ブログ > 1900年パリ万博前後の安達夫妻(その1)―岡村司『西遊日誌』から―
このブログは、高校生・大学生、一般の方に、外交官・常設国際司法裁判所裁判官として活躍した安達峰一郎の「国際法にもとづく平和と正義」の精神を広く知って頂くために設けました。安達峰一郎に関するイベント等の情報、安達峰一郎の人となりや業績等に関わる資料紹介、コラムやエッセイ、今日の国際関係に関わる記事等を随時配信していきます。
投稿日:2018年11月29日
2、岡村司・パリに着く
まずは、岡村の日誌から、峰一郎と岡村との交流を抜き出してみよう。
明治32年(1899年)10月19日、岡村は、マルセイユに到着する。領事館員とされる谷口氏(実際はかなり怪しい人物との評は箕作元八の日記に見える)が出迎えている。岡村は、この段階で峰一郎から、パリ到着の日時を電報にて通知ありたしとの連絡を(谷口氏を通じての連絡かどうかははっきりしないが)受けている。マルセイユは開港2500年の記念祭開催中であったが、その見物は早々に切り上げ、翌日夕方7時40分発の急行列車で出発することを同行者と協議し、20日「安達氏には明朝九時巴里[パリ]着を電報」した、という。同行者とは、箕作元八、村上直三郎、坂本陸軍歩兵中佐、の他、勝本勘三郎、高安右人、村上安蔵であり、岡村と勝本、高安、村上の四人は、この日、パリに向かうこととなったわけである。
このうち、マルセイユで別れた箕作元八は、フランス革命史などを専門とした西洋史学者であり、この当時第一高等中学校教授。後に東京帝大教授となっている。この時はパリには行かず、スイス経由でベルリンに向かうが、後に岡村と入れ替わりにパリで留学生活を送った人物である[前註1参照]。
村上直三郎と坂本陸軍歩兵中佐は、ともにイタリア・ローマに赴くはずとされ、特に後者はイタリア公使館付の武官としての赴任であったようである。
これに対して、岡村とパリに同行した勝本勘三郎は、安達と同様、司法省法学校以来の同窓生であった(但し、卒業は一年後のようである。明治26年(1893年)7月11日官報第3009号111頁)。岡村と同様、京都帝国大学の助教授としての留学である。
高安右人と村上安蔵は医者で、前者は帝大医学部卒の眼科医、後に第四高等中学校に開設された医学部の教授に就任しており、後者も長崎の第五高等学校医学部主事[現在の学部長]となった人物であり、両者はパリを経て、ベルリンに向かうこととなる。
翌日、パリのリヨン駅では四人を峰一郎が出迎えている。馬車で日本公使館近方の旅館に荷物を置いたのち、公使館で公使の栗野慎一郎と面談し、「安達氏に導かれ」下宿探しを早々にはじめている。直前まで留学していた同級生の織田万の下宿先が空いていなかったこともあり、別の安価な下宿先に明後日から移ることとなった。岡村は、翌日も安達と食事をし、天長節の夜会に招待されるが、そのためには燕尾服がなければならないとの忠告を得て、その注文をすることにしたという。
つまり、何から何まで安達が世話をしているわけである。
ちなみに、岡村はこの日(21日)、梅謙次郎の旧師ジョルジュ・アッペールを訪ねており、その様子もまた興味深いのだが、そういった細々した話は省略することとし、以下では、安達の下にどのような人々が集っていたか、に焦点を絞ることにしよう。
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