山形大学人文社会科学部附属研究所

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資料室ブログ

このブログは、高校生・大学生、一般の方に、外交官・常設国際司法裁判所裁判官として活躍した安達峰一郎の「国際法にもとづく平和と正義」の精神を広く知って頂くために設けました。安達峰一郎に関するイベント等の情報、安達峰一郎の人となりや業績等に関わる資料紹介、コラムやエッセイ、今日の国際関係に関わる記事等を随時配信していきます。

1900年パリ万博前後の安達夫妻(その1)―岡村司『西遊日誌』から―

投稿日:2018年12月21日 投稿者:山形大学人文社会科学部教授 高橋 良彰 

4、同郷の人・社交界
 年末に向けパリを離れる人が多くなってきたが、日誌12月9日の記述が面白い。それは、「安達氏より」「斎藤十一郎氏来巴[パリ]に付き十五日に晩餐を饗したきに付き来らずやの書ありき。斎藤十一郎氏と云ふは、控訴院の判事にして、小宮三保松、棚原一郎二氏と(同欠カ)しく、独逸[ドイツ]、澳太利[オーストリア]に司法制度取調の為め巡回に来たりたる人にて、其の帰途巴里[パリ]に立ち寄りたるなりけり」という。
 なぜこの記述が興味深いのか。斎藤十一郎は、明治24年(1891年)に東京帝国大学独法科を卒業した山形(東村山郡横山村・現天童市)出身の判事であり(卒業につき官報第2409号同年7月11日)、したがって安達とは同郷だったことである。対して、小宮三保松は、梅謙次郎と同級の司法省法学校正則二期卒業生であり、古河藩出身で岡村司と同郷・先輩の法曹官僚であった。岡村は「小宮氏は如何にせしや未だ分らず。若し此に来りしならば直ちに行きて見まほしく思ふ。他郷にて故郷の人に遇ふより愉快なるはなし。」と認めている。安達も同じ思いで斎藤と会ったのであろう。つまり、岡村は、安達と斎藤の出会いと自分と小宮の出会いを重ね合わせ、このような感慨を述べたということになる。
 ちなみにここに「棚原一郎」とあるのは、13日の記述で「棚原愛吉」とされ帰国後の報告会の演述筆記で「棚橋愛七」とされている人物のことであろう。この演述筆記に小宮の演説はないが、刑事は棚橋、民事は斎藤、小宮が司法行政の視察をすることとなっていた(司法省総務局編『欧米派遣法官演述筆記』一一四頁。近代デジタルライブラリーより閲覧が可能である)。齋藤については、後でまた触れる予定である。
 この他、この時期に煩雑に出てくる人物としては、まず、博覧会事務局の斎藤氏が挙げられる。斎藤氏とは、おそらく斎藤甲子郎のことで、安達との繋がりで知り合ったのであろう[註]。

註 斎藤については「http://www.wul.waseda.ac.jp/Libraries/fumi/16/16-03.html」を見つけた。写真が引用されており、貴重である。

 また、公使館職員についても名前がよく出てくる。パリに着いた翌日に会っている「清水某」の他、「書記官田付」という名前がある。これは、当時の職員録(国立公文書館所蔵)に外務書記生とある清水潤之助と外交官補として出てくる田付七太のことであろう。また、公使館付武官として「内山大佐」の名前も見えるが、残念ながらどのような人物かは不明である。安達はもとより、公使の栗野慎一郎の他、主要な職員とはよく会っていたということであろう。また、12月15日に日本人会の会合が開かれるが、これは公使館一等書記官の「佐藤氏」(おそらくは佐藤愛麿公使館一等書記官)のドイツへの転任の送別会を兼ねて開催されたもので、「会する者三十人計り、中々盛況なりき」とある。
 公使館員ではないが、公使館で出会った人物として、「重野、岡田、松平子三氏と談話しぬ」が出てくる(13日)。松平子とは、松平頼親のことで、「旧高松の藩主なり」という。重野とは、重野紹一郎。岡田は、画家の岡田三郎助のことであろう。ちなみに、12月25日にローマからパリに着いた岡田朝太郎は別人で、この岡田朝太郎は刑法学者として東京帝国大学教授になる人物である。
 この他、谷本富という名前も出てくる。彼は、帝国大学文科大学選科生となり、哲学全科を修了しヘルバルト教育学を学んだ教育学者であり、後に京都帝国大学教授となり、学部自治が問題となったいわゆる沢柳事件の当事者の一人となっている。したがって、岡村とも因縁浅からぬ仲となった人物といえる。
 18日に出てくる寺島誠一郎は、寺島宗則の子息で、1899年パリ法科大学を、次いでパリ政治学院外交科を1902年に卒業したとされる。24日の日記に出てくるのが高柳国次郎。『大日本実業学会高等商科講義・海運論』を書いた高柳国次郎のことであろうか。商船学校教授であるという。この他、苗字だけではあるが、20日には田中(後に出てくる田中譲のことか)、11月22日の矢部(後に海軍軍医中将となった矢部辰三郎のことか)といった名前や、伊藤陸軍中佐 山口海軍医(29日)(巡洋艦日進の軍医長となった山口猪之吉か)といった名前が挙がる。博覧会関係では、造菊家市川氏 彫刻家村上氏などの記述が見え、31日には、市川氏といった記載もある。
 年末に至り、交際の範囲も広がっていった様子が見て取られる。

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