ホーム > 人文社会科学部附属研究所 > やまがた地域社会研究所:安達峰一郎研究資料室 > 資料室ブログ > 1900年パリ万博前後の安達夫妻(その1)―岡村司『西遊日誌』から―
このブログは、高校生・大学生、一般の方に、外交官・常設国際司法裁判所裁判官として活躍した安達峰一郎の「国際法にもとづく平和と正義」の精神を広く知って頂くために設けました。安達峰一郎に関するイベント等の情報、安達峰一郎の人となりや業績等に関わる資料紹介、コラムやエッセイ、今日の国際関係に関わる記事等を随時配信していきます。
投稿日:2019年2月21日
5、1900年のはじまり
年が改まった1月1日には公使館での年始会があった。「会する者三四十人計り」とされ、当然そこには安達夫妻もいたと考えられる。6日の日記に「ロンドンなる安井て津子に寄する書を作りぬ」とあることについては、後で触れよう。
岡村は、文部省派遣の留学生であった。この時期、文部省の官吏もパリにきている。1月7日、日記には「近日、日本より到着せる文部省官吏 正木直彦、渡辺董之助」との記載がある。
正木直彦は、明治から昭和初期の美術行政家。文部官僚出身で、東京美術学校(現東京藝術大学)の第五代校長を帰国後の1901年から1932年までの長期にわたって務めたという。安達とともに東京帝国大学法科大学法律科を卒業し(明治25年(1892年)7月12日官報第2711号131頁)、この当時、第一高等学校教授を兼任していた。明治32年(1899年)から美術などに関する調査のため欧米に出張していたところであり、夏目漱石と大学予備門・第一高等中学校に学んだという(山本順二『漱石のパリ日記』30頁以下)。
渡辺董之助は、明治22年(1889年)帝国大学文科大学を卒業した(明治22年(1889年)7月11日官報第1809号124頁)。文科大学ではあるが同じく帝大出身の文部官僚である。1900年9月にパリを訪れた夏目漱石を案内したのはこの人物である(山本前掲書40頁以下)。
安達との関係で気になる記載としては、1月11日のものがある。それによると、数日前、安達氏は「馬車のナガエに衝き当りて胸を打ちたれども、幸いに怪我もなく別条なしと云へり」という。打ち所が悪ければ大けがになったであろうが、幸いにして、というところである。このような話題が出てくるのも、日々の記述が残る日記ならではのことである。
13日の日記に出てくる「堀口九万一氏ブラジルに赴任する」とある堀口氏は、安達と同じ外交官。勝本と同じ明治26年(1893年)に東京帝国大学法科大学を卒業している。詩人堀口大學の父親である。また、14日の日記には、その後同じ家に住むことになる、建部遯吾が来訪している。
1月末には、穂積陳重がパリに来ていることが興味深い。23日、穂積は、ブリュッセルにいた高橋作衛(国際法学者で後に東京帝国大学で国際法の教授となる)に伴われ、渋沢喜作(穂積陳重の妻歌子の父である渋沢栄一の従兄弟)とともにパリを訪問し、2月6日まで滞在している。穂積の洋行は、初めての留学以来20年ぶりのことであり、ローマで開催された国際学会(第12回万国東洋学会)への参加が主目的であったが、「其序ヲ以テ欧米各国学術ノ実況ヲ視察セシメ」るため、ロンドン・ベルリンをはじめ、各地を訪ねていたところであった(註)。安達をはじめ岡村にとっても帝国大学法科大学において教えを受けた先生であり、2月1日には「巴里[パリ]学士会」が開かれている。いわば教授を迎えての同窓会であるが、そこに参加したのは「穂積陳重、清水市太郎、谷本富、渡辺董之介、正木直彦、岡田朝太郎、勝本勘三郎、建部遯吾、田付七郎、中村某(工学部)、渋沢喜作及び余の12人」であった。残念ながら安達の名は出てこない。「安達峰一郎氏は風邪の故を以て来会せざりき」と言う。「此の日微雪ありき」という寒い日だったこともあったのだろう。
註 穂積の妻歌子による日記『穂積歌子日記』が孫の穂積重行の解説付で公刊されており、穂積陳重の学会派遣などについてはこれを参照した(同書462頁、473頁、518頁以下)。ちなみに、前掲『箕作元八・滞欧「箙梅日記」』には、ベルリンでの穂積の様子が出てくる。
また、2月8日の日記によると、安達は、その翌日9日から「栗野公使と同じく西班牙(スペイン)葡萄牙(ポルトガル)二国に赴き、三月中旬帰巴すべしと通知し来りければ[中略、安達に合いに]公使館に至りしに[中略]公使及安達氏は既に昨夜出発したりと」という。行き違いとなったわけである。安達がパリに帰るのは、3月10日頃であり(同月一二日の記述より)、パリに戻るとすぐに安達の方から岡村を訪ねている(16日)。
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