山形大学人文社会科学部附属研究所

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資料室ブログ

このブログは、高校生・大学生、一般の方に、外交官・常設国際司法裁判所裁判官として活躍した安達峰一郎の「国際法にもとづく平和と正義」の精神を広く知って頂くために設けました。安達峰一郎に関するイベント等の情報、安達峰一郎の人となりや業績等に関わる資料紹介、コラムやエッセイ、今日の国際関係に関わる記事等を随時配信していきます。

1900年パリ万博前後の安達夫妻(その1)―岡村司『西遊日誌』から―

投稿日:2019年2月21日 投稿者:山形大学人文社会科学部教授 高橋 良彰 

6、パリ万国博覧会開催前夜
 2月17日に開かれた日本人会は、博覧会が近づいたこともあり「会する者三十五六名、万国大博覧会事務所、出品協会などの面々多く、新顔の人多かりき」と言う。
 この日の記述で興味深いのは、「此にて内山大佐より、閑院宮殿下が三月二十六七日頃来巴せらるべき旨を聞き、又、皇太子嘉仁親王殿下が二月十一日に九条節子姫と結納の式を挙げられたる旨を聞」いたことである(東宮殿下御慶事として2月11日の紀元節の日に婚姻について発表された)。
「殿下は皇族の資格にてはなく、秘密旅行をせらるゝなりとぞ。或いは云う、皇太子殿下、大博覧会に御来臨につき其の下見分の為めなりと。果たして然るや否やを知らず。然れども皇太子殿下の御洋行せられんことは、在外臣民の均しく希望し奉る所なり」
 結局、この日の話は噂話に過ぎず、皇太子殿下(後の大正天皇)の洋行は実現しなかったが、このような噂が流れるほどパリ万博がもてはやされ、その開催を契機に日本人が大挙してパリにおもむいたということなのであろう。また、鏡子夫人が東宮職御用掛を務めたことはよく知られているところであるが、この話を聞く機会はあったのだろうか。聞いたとすれば感慨深いものがあったに違いない。ちなみに、皇太子殿下の結婚については、その当日(5月10日)パリにおいてもお祝いの会合が開かれ、この日、安井てつと新渡戸稲造とがはじめて出会うことになる、といった後日談は(その2)にて別に語ることとしたい。
 少々岡村のパリ生活を長く紹介しすぎたようである。岡村の日誌はこの後も続く。たとえば、元判事の林謙三が訪ねてきたり(3月30日)、同僚となる春木一郎(ローマ法)がベルリンからやってきたり(4月20日)、東京美術学校教授の浅井忠など様々な人たちとの交流が記載されている。しかし、その交流も固定化してくる。4月になると、環境を変えようとしたのだろうか、建部遯吾と同じ家に住むこととし、郊外のサンクルーに引っ越したりするが、結局、9月にはドイツのイエナに向かうことになる。パリでの生活は楽しかったようであるが、このままでは留学で何一つ得るものもなく終わるのではと言う思いに襲われたようである(1月21日)。もっとも7月中旬にはドイツに移るつもりだったが、パリ万博に合わせて開催された国際学会が目白押しで、「八月下旬まで仏国に逗留することとはなりぬ」(6月5日)と言う。その一つ「土地所有権万国会議」のパンフレットにはただ一人東洋から参加した岡村の名が見える(Congrès international de la propriété foncière , Paris , 11,12 Juin 1900 , p35. 同書は、パリ国立図書館のGallicaで検索できる)。パリ万博に合わせ各種学術会議が開かれたことは、それ自体興味深いことである。
 ともあれ、いよいよ4月、パリ万博が始まる。その様子については、その2として見ていくこととしたい。

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