山形大学人文社会科学部附属研究所

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資料室ブログ

このブログは、高校生・大学生、一般の方に、外交官・常設国際司法裁判所裁判官として活躍した安達峰一郎の「国際法にもとづく平和と正義」の精神を広く知って頂くために設けました。安達峰一郎に関するイベント等の情報、安達峰一郎の人となりや業績等に関わる資料紹介、コラムやエッセイ、今日の国際関係に関わる記事等を随時配信していきます。

1900年パリ万博前後の安達夫妻(その2)―岡村司『西遊日誌』と『安井てつ書簡集』から―

投稿日:2019年6月10日 投稿者:山形大学人文社会科学部教授 高橋 良彰 

3、パリの服装
 峰一郎からのアドバイスもあって、岡村がパリに到着してすぐに新しい服を仕立てた、ということをこのブログの最初の方で紹介した。岡村はまた、フランスでは「男女皆綾羅[りょうら・美しい衣服]を着飾りキタナキ衣服を着たるものなし。男子は大抵シルクハット(高礼帽)を被り、フロックコートを着し居れり」と記載している(着いてすぐの頃の1899年(明治32年)10月22日)。今回は、その服装のことについて見てみよう。
 前回、「安達氏の細君は平常洋服を着するものと見え、一見仏人の如し」という岡村の日誌に触れた。鏡子夫人は、洋服を着こなしていたことがこの記述からわかるのだが、岡村は、日本人の女性が洋服を着こなすことが出来るということについて、実は、懐疑的であった。こんな記述がある。

「日本公使館天長節の夜会に赴きぬ。会する者五十人計り。皆日本人なり。公使館員の家族の婦人五六人居りたり。皆洋服を着けたれども如何にも似合はず」
(11月3日)

 「公使館員の家族の婦人」とされる中に鏡子夫人がいたかどうかは定かではない。しかし、この表現から、岡村は一般的な意見として日本人女性の洋装を「似合わない」と見ていたことが解る。もっとも、そのような日本人女性に対して、鏡子夫人を「一見仏人[フランス人]の如し」と評していることをどう見たらいいだろうか。
 鏡子夫人が卒業した高等師範学校高等師範科(現在のお茶の水女子大学)卒業生の写真がそのことを解き明かしてくれるように思われる。同大学のデジタルアーカイブズで見ることができる卒業写真には、当時めずらしかった洋装での写真が掲げられている。つまり、夫人は、日本にいた時から洋服を着ることが何度もあったことが伺えるのである。そして、これは、『安井てつ伝』によると、初代文部大臣の森有礼の欧化政策と関連している、という。つまり、同書は東京女高師の六十年史を引用し「婦人の洋装、束髪の普及は最も著しいもので、明治一八年九月本校も洋服を採用し、生徒は洋服で課業を受け、又学校でダンスの稽古をした」(同書24頁)という。安井の手記にも、「官立学校においてクリスマスの祝賀会を催したり、講堂において知名の紳士淑女が舞踏会を催し、有志の生徒は之れに参加することを許されたことさへあったのである」(同書25頁)とある。そして、明治一八年九月とは、その注によると森有礼の改革により女子師範学校が師範学校女子部となった同年八月のすぐ後のことであり、鹿鳴館華やかなりし頃のことになる。鏡子夫人もまた、学生時代から洋服に慣れ親しんでいたと考えられ、それを着こなしていたのであろう。
 ちなみに、『安井てつ伝』は、安井と鏡子夫人との洋服姿の違いについて興味深い観察を紹介している。同じ高等師範学校で洋装の洗礼を受けた両者がどのように異なっていたのか、同書が引用している書簡集(『若き日のあと』114頁)から、紹介しよう。
(安井てつによる野口幽香宛明治32年9月11日付書簡。[ ]内は高橋が注として挿入。部分的に「、」を「。」にして引用し、またいくつか改行を施した)

「(前略)実は六月十一日より校長[トレーニング・カレッジ校長ヒュース]と共ニスヰツランド[スイス]にまゐり[中略]七週間[中略]滞在致し候」
「途中巴里にて安達かね子氏にあひ、夕飯の御馳走に相成、翌日晝飯[昼食]には私旅店[原文のまま]に同氏を招き候。
同氏は細君なり。人の母なり。巴里住ゐなり。実に奇れいにおつくりして、美しき衣服をつけ[、]しとやかにもてなす。
傍に、私は旅行中なり。書生なり。英国風に感化せられて無骨なるカラに、セイラー、ハット(書生の夏帽子)を被りてあひし候。
如何にも其差甚しく、全く仏英の特性を二人間にあらわせりとて、後に校長が笑ひ居り候。
同校長は今まで英国人が私に及ぼせる自然の感化がこれほどならんとは思はざりしとおどろき居り候。
(唯外観の感化にて内心は安達氏も私も共に日本の女子たるものを)。」

 鏡子夫人(書簡の表記では「かね子」)について、①「細君」(峰一郎と婚姻している)、②「人の母」(功子・太郎・万里子の母親)、③「巴里[パリ]住」、④「実に」綺麗にお作りして、⑤「美しき衣服をつけ」⑥「しとやかにもてなす」というのも興味深いが、「無骨なるカラに」「セーラーハット」のイギリス留学生安井と比較し、これをフランスとイギリスの特性としてみている訳である。同じ日本人ではあるが、両国の感化に驚いているケンブリッジ大学のカレッジ校長ヒュースの観察眼も面白いところである。
 なお、先に引用した書簡にはその続きがあり「私従兄岡村司仏国留学を命ぜられ三年間参る筈に候間帰朝前巴里にてあひ申さん」という。1899年の書簡であり、スイスに夏休みを過ごしたのはパリ万博の前年のことであるが、すでに万国博覧会を目当てにパリを再訪することを決めていたことが解る。

(以下写真引用)

お茶の水女子大学所蔵の写真を、同大学歴史資料館館長の許可をいただき、ご提供いただいた。高等師範学科卒業時の写真で明治23年(1890年)3月のもの。手前右から2人目が安井てつ(日誌では「て津子」)であり、そのことについては前掲『若き日のあと』を参照した。同書では、卒業生の特定がなされている。



 同じく、お茶の水女子大学所蔵の卒業写真をご提供いただいた。それとともに、お茶の水女子大学歴史資料館の長嶋様より関連する情報もご教示いただいた。記してお礼申し上げたい。
 写真は、明治24年(1891年)4月のもので、こちらは高等師範科・小学師範科卒業生のものである。卒業生は、国会図書館のデジタルコレクションにある官報(同年3月27日付第2319号)と『女子高等師範学校一覧』によれば、佐々木あさ(山口県士族)太田みつ(長野県士族)田中くに(山梨県平民)原いく(長野県平民)細野鉎(東京府士族)星名喜與(愛媛県士族)小貫琴(秋田県士族)吉田のぶ(群馬県平民)吉川鉚(新潟県士族)窪田すみ(静岡県士族)志賀かま(東京府士族)池田しの(東京府士族)戸澤かず(東京士族)三好いね(広島県士族)藤村政(山口県士族)安藤みち(千葉県士族)髙澤鏡(山形県士族)及び小学師範科卒業生の廣瀬蓁治(京都府士族)。したがって、高等師範科17名、小学師範科1名(3月卒業)となり、写真との人数は合っている。ただ、多くの方からこの人ではというご意見はいただいたのだが、確実にこの方が「かね子」夫人であるという人物特定は出来ないでいる。
 夫人はもちろんのこと、同級生の方についても情報をご提供いただければ幸いです。

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