山形大学人文社会科学部附属研究所

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資料室ブログ

このブログは、高校生・大学生、一般の方に、外交官・常設国際司法裁判所裁判官として活躍した安達峰一郎の「国際法にもとづく平和と正義」の精神を広く知って頂くために設けました。安達峰一郎に関するイベント等の情報、安達峰一郎の人となりや業績等に関わる資料紹介、コラムやエッセイ、今日の国際関係に関わる記事等を随時配信していきます。

1900年パリ万博前後の安達夫妻(その2)―岡村司『西遊日誌』と『安井てつ書簡集』から―

投稿日:2019年6月17日 投稿者:山形大学人文社会科学部教授 高橋 良彰 

5、万博見物
 「安井て津子」がパリに来たのは、1900年(明治33年)5月1日のことであった。それから15日にロンドンに還るまでの安達夫妻と岡村司・安井てつとの交流を辿ってみたい。この期間中の日誌には集中的にパリ万博の様子が綴られているからである。

5月1日
「安井て津子の書あり。曰く、一日夕刻、巴里に着すべし、宿所は安達氏の周旋によりて、日本公使館の近傍なるリュードラポンプに定めたりと。」
2日
「晴、朝、リュードラポンプ町に至りて安井て津子を訪ひぬ。此の家の主婦は六十歳計りなるアイルランド人にして能く英語を操り、懇切に世話をし呉るゝと云へり」

 この日の文面からは、安達夫妻の斡旋により宿での生活を始めた安井の姿が浮かんでくる。英語に堪能な家主の下で、安井は岡村に留学の成果を伝えている。その内容は3点ある。短く引用すると、
1、「日本女子教育の振るわざるは男子の女子に期待する所のものゝ極めて卑汚なるに在りと。」
2、「女子教育の目的は完全なる女人を養成するに在り、」
3、「英国女子の地位の高尚にして、自由に言論するの風を喜ぶものゝ如し。」
 また、フランス人とイギリス人とを比較しているのが面白い。
「仏国人は開轄[快活の意味か]なれども軽躁なり。英国人は沈鬱なれども着実なり。余は寧ろ英国人を可となすなど云へりき。」
 これらの言動に対する岡村の評価は次のようなものであった。
「其の言の得失は姑く舎き[しばらくおき]、是れ皆留学の結果にして一段の見識を長ぜるものと評すべきなり。」
 この後、安井は鏡子夫人と一緒に博覧会の見物に出かけている。
「[昼食をご馳走になった後]やがて安達氏の細君来りて安井と同じく博覧会の見物に赴けり。余は公使館に行きて安達峯一郎氏を見き。」
 次いで、4日には、安達夫妻、息子の太郎とともに、安井が岡村のもとを訪ねてきている。食事をともにし、公園を散歩し、ブローニュの森まで来て別れたという。

4日
「晴、午時、安達峯一郎氏、其の細君鏡子、其の幼児太郎及び安井て津子と共に来けり。宿のおかみさんに頼みて午餐を調理し建部氏を併せて六人、食卓を囲みて午餐を喫しぬ。之より相伴ふて公園に散歩し、其の帰りを送りてブローニュに至りて別れぬ。」

 翌日の5日は、パリ万博の日本館の開館式があった。その様子を伝える岡村が、日本館のあり方に対して不満を述べていることも興味深い。

5日
「晴、午下、万国博覧会内なる日本陳列館の開館式に赴きぬ。日本陳列館はセーヌ河の右岸、トロカデローと云ふ所に在り。トロカデローと云ふ所は外国植民地、例へば英領印度、露領西比利亜、仏領アルゼリー等の陳列館を設くる所にして各本国の陳列館を設くる場所は別にセーヌ河の左岸に在るなり。然るに堂々たる大日本帝国の陳列館を外国植民地の部に建設し、日本をして恰も他国の領地なるが如きの観粗しむるものは、実に国体を害するの尤も甚だしきものにして、余等の第一に不満とする所なり。」

 その後、しばらく日誌には安井のことが出てこない。安井が日誌に再登場するのは、一〇日のことである。岡村とともにセーブルの陶器製造所を訪ねているのだが、この間は、連日鏡子夫人と諸方を見物してきたことがその日誌からうかがえる。もっとも、この当日、鏡子夫人の姿はない。恐らくは公使館で予定されていた皇太子殿下御結婚祝賀会の準備に忙しかったのであろう。そして、この夜会こそが、安井と新渡戸稲造とが初めてあった会合であったと思われる。

10日
「晴、午後、安井て津子来りて建部氏と同じくセーブルの陶器製造所に行きて見物しぬ。[中略]て津子は連日、安達鏡子と諸方を見物せし由なるも、此の日は安達子差支ありて独り出でけるなりとぞ。夜、皇太子殿下御結婚祝賀の夜会に日本公使館に赴きぬ。会する者数十百人、いと盛会なりけり。」

 次に安井が岡村の日誌に現れるのが、一二日である。パッシー通りの小学校や織物の製造所を視察した様子がうかがえる。鏡子夫人の姿は見えないが、教育機関を参観していることが興味深く、公使館からの紹介状が役立ったという。安達が便宜を与えたとも考えられよう。

12日
「建部遯吾氏と同じくパッシー街に至り、大槻龍治(法学士にて京都市の助役)、立花銑三郎、渡辺千春諸氏及安井て津子と会し、相共に同街なる尋常小学校を参観しき。これは公使館より此等の諸人に同時に参観の紹介状を与へたるなり。[中略]午後、ゴブレン街に至りてゴブレン織物の製造所を見ぬ。[中略]て津子は愈々十五日朝出発、英国に還ると云へり。」

13日(この日は日曜日)
 この日の日誌には取り立てて記載されていることはない。しかし、安井が新渡戸と二度目に会ったのが、この日曜日であった。というのも、安井によると、この時、新渡戸とパリで二度会ったとされているからである。 「不思議の事にて新渡戸稲造氏と巴里[パリ]にてスピリッチョアル、フレンドに相成、わづか二度の會合が二十年以来の胞友のごとく相成候、胞友と申しては少しく失禮、師弟のごとくに候」(『安井てつ書簡集』131頁)  そして、初めて会った際に、次のように言われたという。その言葉は、新渡戸の姿を彷彿とさせるものがある。
「先生[新渡戸]は例のフレンドリーな態度で、「あなたが安井さんですか、英国留学の感想はどんなです、ゆっくり話を聞き度いと思うが、丁度此次の日曜日に四五人の者が集つて語り合ふ事になって居るから来ませんか」という意味の事を語られたのである。」(前田多門・高木八尺編『新渡戸博士追憶集』380頁)
 この日曜日が一三日である。そして、「公使館」で初めてあったのは、一〇日と言う事になる。「巴里[パリ]に於て万国博覧会が開かれた時であった。私は三年間の英国留学を終へて将に帰朝の途に就かんとする直前、博物会見物のため巴里に出かけて行った。ある日私は巴里に居る多くの日本人と共に、招待を受けて大使館[公使館の誤り]に行ったが、其処で初めて新渡戸先生にお目に懸つたのである」(追憶集379頁)
 そして、その翌日の日誌に安井が出てくる。

14日
「陰雨、暴風の兆しあり。[中略]それより安井て津子の寓に赴き[中略]晩餐の饗を受けゝり。此の間、て津子が頗る耶蘇教に傾ける様になりたる経歴を聞きぬ。[後略]」  したがって、安井と新渡戸が二度会ったその翌日に岡村にキリスト教の話をした、ということになる。この日のやりとりについては、別に語ることとしよう。翌一五日、安井はパリを離れる。
15日
「晴、朝、建部遯吾氏と同じくサンラザル停車場に至りて、安井て津子の倫敦に還るを見送りぬ。安達峯一郎夫婦、て津子を送りて在りたり。」

 岡村の日誌での安井のその後の消息については、二度触れられている。引用しておこう。

30日
「陰、朝、安井て津子の書あり。曰く、来月二日亜米利加に向けて出発すと。」
6月22日
「安井て津子より、本月九日紐育[ニューヨーク]に着せりとの報あり。岡田朝太郎氏よりも同様の通知あり。此の二人は同船なるべし。」

 アメリカで新渡戸の妻と会った後、安井てつが帰国したのは、1900年(明治33年)7月22日のことであった(「留学生帰朝」『官報第五千百二十三号』四四二頁)。

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