山形大学人文社会科学部附属研究所

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資料室ブログ

このブログは、高校生・大学生、一般の方に、外交官・常設国際司法裁判所裁判官として活躍した安達峰一郎の「国際法にもとづく平和と正義」の精神を広く知って頂くために設けました。安達峰一郎に関するイベント等の情報、安達峰一郎の人となりや業績等に関わる資料紹介、コラムやエッセイ、今日の国際関係に関わる記事等を随時配信していきます。

1900年パリ万博前後の安達夫妻(その2)―岡村司『西遊日誌』と『安井てつ書簡集』から―

投稿日:2019年6月19日 投稿者:山形大学人文社会科学部教授 高橋 良彰

7、まとめに代えて―――パリ散策
 これまで、岡村の日誌を素材に安達夫妻と岡村・安井との交流を見てきた。最後に、日誌にも出てくる住所を挙げながら、パリ散策のための情報を提供して終わりにしたい。100年以上前の住所であるが、現在もパリの街並みは大きくは変わっていない。ここに登場した人たちが歩いた街並みを訪ねる機会があったら(行かなくとも今ではWeb上で歩き回ることもできるだろうが)是非訪ねていただければ幸いである。
 まずは、安達夫妻の住所について。
1902年発行の
Annuaire de la Société franco-japonaise de Parisの9頁に
Liste alphabétique des membres de la Société franco-japonaise de Paris
と題するリストがあり(下記のGallicaのPage Paginationではvue31/146が表示される2つ目の「9」の頁。検索としては同じ雑誌になる)、そこに、1900年の安達の住所として
7, avenue de la Grande-Armée.
とある。
 ちなみに、この雑誌はパリ日仏協会の結成からの会報にあたるが、とりわけ、1 9 0 3年3月1 4日に行われた安達が日本に帰国する送別会の様子を伝えた部分が面白く、安達のスケッチ(47頁)がその演説(48頁)とともに残されている。こちらの雑誌の表題は
Bulletin de la Société franco-japonaise de Paris.
 であり、フランス国家図書館(BnF)が運営するGallicaから検索すると、先の雑誌と同じもので、その1905年発行分としてみることができる。右下のPage Paginationとある部分から47と数字がある部分に安達の肖像スケッチが、演説はその次の頁になる。その発行は1903年の部分にあたる。
 なお、地番は、5の可能性もある(山本順二『漱石のパリ日記』87頁)。また、両方の住宅を居所に使っていた可能性もあろう。
 この当時のパリ日本公使館は、(もっと正式な証拠資料はあるのだろうが)
Guide offert par les grands magasins de la ville de St-Denis/ Exposition universelle, 1900
の36頁によると、
75, avenue Marceau.
である。この本もGallicaで検索可能になっている。
 したがって、 安達の住居からは徒歩で行けば11分の距離である。極めて近い位置にあることがわかる。
 次いで、岡村の住所。
 岡村は、まず「センシュルピース」旅館に明治32年(1899年)10月23日より滞在し、大学近くの下宿を探した。この旅館(ホテル)の住所はわからないが、「センシュルピース」とは、有名な教会Église Saint-Sulpiceのことであり、その所在地は、パリ6区・リュクサンブール公園のすぐ北である。そして、その後に住んだパリ大学近くの下宿は、バポーム夫人が営む六階の部屋で、10月31日からはここに住むことになる。住所は、
43 Rue des Écoles
であり、ここは、現在Hôtel Claude Bernard Saint-Germainと言うホテルとなっているようである。私には少し高いが一度泊まってみたい便利な場所にあると言える。というのも、いわゆるカルチェラタン、パリ5区にあたり、パリ・ソルボンヌ大学のすぐ近く、パンテノンの向かい側にある法学部の建物にもすぐの場所となっているからである。ちなみに、ここには後に箕作元八が住むことになるが、大家のバポーム夫人とは折り合いが悪く、退去の際に大げんかしていることが箕作の日記に見える(前掲『滞欧「箙梅日記」』252頁および解説の328頁)。クリスマスのお祝いを贈った繊細な神経の岡村と箕作との性格の違いが良く分かるエピソードである。
 この住所からは、歩けば1時間11分ほどで安達夫妻の家に着くことができる。タクシーで行けば(当時は簡単に捕まるとは思えないが、馬車はもちろん自動車もあった)、シャンゼリゼを通って30分弱の距離という(こちらは現在の時間でだが)。
 岡村は、その後郊外に移り住む。1900年4月26日よりパリ郊外のSaint-Cloudに転居し、その住所は
Rue des Écoles , Saint-Cloud
であり、ブローニュの森に近い。その1番地ならば歩いて安達夫妻の住所まで1時間40分ほどである。パリ万博の頃はこちらの住所に移転しており、安井や安達夫妻が息子の太郎を連れて訪ねてきたのはこの地である。帰りに公園を散歩しブローニュで別れたというのは、そこから安達夫妻の住処へ向かう途中で別れたということであろう。それまでのパリ大学付近から安達夫妻の住居までの距離と比べれば、徒歩でなら30分ほど遠くになったわけである。ちなみに大学までは徒歩で2時間15分はかかる距離である。つまり、この時期になると毎日大学に通うことはなかったということなのだろう。
 ちなみに、岡村がパリに着いてすぐに訪ねたお雇い外国人アッペールについては、その住所が知られている。現在の5区の
9 Rue du Val de Grâce
のようである(西堀昭『増訂版日仏文化交流史の研究』119頁による)。岡村が最初に住んだ地区のすぐそばだったことになり、センシュルピース教会やパリ大学にも近い。
 次いで、安井てつの滞在先は、番地はないが、通りの名前は解る。
Rue de la Pompe
一番近ければ(186番地)、安達夫妻の住居まで徒歩で10分ほどの距離になろう。「日本公使館の近傍」とされるように、公使館までは徒歩で15分ほどの距離である。
 万国博覧会の会場は、「11889年の万博会場に加え、セーヌ川右岸、ヴァンセンヌの森も会場とされた。シャンゼリゼに新たにグラン・パレとプチ・パレが建設され、セーヌ川対岸のアンヴァリッドとの間は壮麗なアレクサンドル三世橋でつながれた」とされている(国立国会図書館のwebであるhttps://www.ndl.go.jp/exposition/s1/1900.htmlから)。
グラン・パレは
3 Avenue du Général Eisenhower, 75008 Paris
プチ・パレは
Avenue Winston Churchill, 75008 Paris
にあり、その北側にシャンゼリゼ。何れにせよ、安井の宿からも遠くはない。
 日本館が置かれたのは、トロカデロ庭園Jardins du Trocadéroであり、エッフェル塔の北西、セーヌ川を渡った先に広がっているシャイヨー宮付近。
「会場は先の2つの会場をはじめアンバリッド、シャイヨー宮、シャンドマルスのエッフェル塔とシャンゼリゼ一帯と、ヴァンセンヌの森一帯でした」とはhttps://parismusee.exblog.jp/13217422/による。

 最後に、私が研究しているボアソナードについても一言しておきたい。
 ボアソナードはこの時期ニースとカンヌの中間地点である南仏のアンチープで生活していた。現在のジュアン・レ・パン駅Gare de Juan-les-Pinsからしばらく歩いたところにある別荘であったという(現在Hôtel La Villa Cap d'Antibesという四つ星ホテルになっているようである)。もっとも、隠遁していたわけでなく、ほぼ一年に一度はパリに行っていた。このことは、教え子のひとりである杉村虎一宛に送った手紙から分かる。杉村は司法省法学校正則一期生(したがって宮城浩蔵と同期)。外交官となり、長くロシアに生活し、この時期もサンクトペテルブルグに居た。その杉村宛の手紙が明治大学に残されており、村上一博氏によって活字におこされている(Meiji law journal第8号と第9号にあるがこの時期のものは後者に収められている)。これらによると、ボアソナードは、1900年の夏、7月から9月にかけて、パリに滞在していた。そのボアソナードのパリ滞在中の住所は、
17 Rue Michel Ange
である。そこにはおそらく妻のアンリエットJulie Henrietteと息子のポールPaul Loius Henriが住んでいたと思われる(娘のLouise Henrietteはボアソナード ともにアンチープに住んでいた)。なお、ボアソナード の死亡証書がアンチープの文書館に残されており、以下のアドレスで見ることができる。
https://archives.ville-antibes.fr/4DCGI/Web_RegistreActes4E15xzx54137*191/1/ILUMP11215
 ボアソナードがこの時期にパリに来ていたとすれば岡村の日誌に何か出てきそうであるが、ボアソナードの友人と会ったという記述はあるものの、本人と会ったという記述はない(ただし、活字におこされた日誌は7月までのものでその後に会った可能性はあろう)。岡村との繋がりはあまりなかったのかもしれない。しかし、安達との繋がりは濃かったと思われる。したがって、公使館を訪ね、安達と会った可能性は高いのではなかろうか。
 個人的には、ボアソナードがパリ万博を見学していたということが分かり、感慨深いものがある。ボアソナードはその前の1889年パリ万博を日本から一時帰国して見学しておりエッフェル塔を眺めたと思われるのだが、1900年のパリ万博の時にはすでにエレベーターが取り付けられていたという。高齢ではあったが好奇心の強いボアソナードの事である、エッフェル塔にも登ったのではなかろうか。あるいは安達と一緒に、などと想像してみるのも楽しい。
 そんなことを考えながら、パリの街を散策するのも一興ではないだろうか。
(了)

ボアソナード の死亡証書

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