山形大学人文社会科学部附属研究所

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資料室ブログ

このブログは、高校生・大学生、一般の方に、外交官・常設国際司法裁判所裁判官として活躍した安達峰一郎の「国際法にもとづく平和と正義」の精神を広く知って頂くために設けました。安達峰一郎に関するイベント等の情報、安達峰一郎の人となりや業績等に関わる資料紹介、コラムやエッセイ、今日の国際関係に関わる記事等を随時配信していきます。

安達峰一郎と石井菊次郎―1

投稿日:2019年10月21日 投稿者:山形大学名誉教授 北川 忠明

 石井・ランシング協定(1917年11月)によって歴史に名を残す石井菊次郎(1866-1945)は、小村寿太郎以後の日本の代表的な外交官の一人です。安達峰一郎よりも3歳年長で、1920年6月から1927年12月に外務省を退職するまで、ほぼ7年半に渡り駐仏大使を務め、また国際連盟理事会と総会の日本代表も務めました。安達は10年ほど駐ベルギー公使・大使を務め、その間、石井とともに総会の日本代表を、石井が不在のときは国際連盟理事会代表を務めました。そして、石井の後任として駐仏大使を2年半務めます。
 石井大使の後任となった安達は、パリ着任後、国際法学者で日本外務省顧問であったトーマス・ベイティ(Thomas BATY)宛書簡(安達峰一郎記念財団所蔵「紅ファイル1–455」)の中で、石井について次のように述べています。

 「セーヌの畔に居を構えてから私は非常に大きな心配事を抱えています。それは、私の友人である偉大な石井子爵の残したものを継承するということです。 ……私は当然ながら彼の代わりにはなるとは思いません。私が最大限望みうるものは、日本とフランスとの関係を緊密に強化することを目的として、また正義に基づく世界平和の維持と強化のために、石井子爵によって明確に開かれた道に可能な限り近づくことです。」

 安達は、石井を日仏外交と国際連盟外交を支えた人物として極めて高く評価しています。他方、石井は安達の没後、安達を次のように評しています。

 「一つ私は、どうしても安達君について今もって分からぬことがあるのであります。その長い間、つらつら安達君の働きぶりを見ますというと、ことに働いた結果を見ますというと、実にこの安達君の仕事というものは結果が不思議なのであります。  非常に先生のいうたこと、なしたことが外国人の気に入るのであります。不思議というと、余りなしたこと、いうたことがよくないのに、結果が不思議と思うかもしれませんが、いいには相違ない。いいけれども、どうしてああいう結果を得るかということは、私にはどうもわからぬ。」
 「だんだん私は考えて見ましたが、もし日本に、国際人というのは名が悪いかもしれないが、国際的の人物がいるというならば、まず安達君だろうと私は思うのです。この安達君が世界の人の博覧会、つまり国際連盟、中南米から世界中ことごとくの人の選抜せられた所に集まって行って、その間に人望をおさめ、その関心をおさめ、尊敬をおさめた。これは日本にとっての宝だと、私は始終思っておったのであります。」(安達峰一郎記念館『世界の良心 安達峰一郎博士』、1969年、149-150頁)

 石井は、安達を国際人の筆頭に置き、国際連盟での活躍に賛辞を贈っていますが、日本の対国際連盟外交は石井と安達のコンビによって牽引されたと言えるでしょう。それを如実に示したのが、1924年の「国際紛争の平和的解決のための議定書」(ジュネーブ議定書)審議です。

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