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このブログは、高校生・大学生、一般の方に、外交官・常設国際司法裁判所裁判官として活躍した安達峰一郎の「国際法にもとづく平和と正義」の精神を広く知って頂くために設けました。安達峰一郎に関するイベント等の情報、安達峰一郎の人となりや業績等に関わる資料紹介、コラムやエッセイ、今日の国際関係に関わる記事等を随時配信していきます。
投稿日:2019年10月30日
最後の三番目は、不戦条約を巡る石井と安達の対応に関わります。
不戦条約は、フランスのブリアンが米仏二国間の安全保障条約を米国に提案したことに端を発しますが、最終的にはアメリカの側から多国間の条約として提案され、1928年8月27日にパリで調印されます。
日本も内田康哉全権が署名し、批准手続きに入りますが、外務省を退職して枢密顧問官になっていた石井は、不戦条約反対ではないものの、批准に消極的な対応をします。
第一に、条約第一条で国家の政策の手段としての戦争を放棄することを「其ノ人民ノ名ニ於テ」厳粛に宣言すとなっているが、これは天皇主権の大日本帝国憲法に違反するというのです。
第二は、第二条では仲裁・裁判手続きも違反者に対する制裁規定も欠如していて、実効性が疑わしいというものでした。
石井が消極的に対応したことには理由があります。アメリカ提案の不戦条約案は、アメリカにおける反国際連盟派のボラー(W.E.Borah)共和党上院議員が主導したもので、第一に、「人民ノ名ニ於テ」というのはアメリカ式の人民主権原理を基礎にし、宣戦や講和を人民に委ねるものではないか、第二に、アメリカ主導で作られた仲裁・裁判手続きも違反者に対する制裁規定もない条約は、国際連盟を弱めることにならないか、というものです(石井菊次郎『外交余禄』)。
第一点はポピュリズムへの警戒とも取れますが、要するに石井は、ウィルソンによる米国の国際連盟加盟提案を葬ったボラーが関与しているのであれば、下心があるに違いないと勘ぐったのです。
これに対して、安達は、「人民の名において」については、「委任代理代表の意味はない、主権人民に在りの意味もない」という仏側意見を伝達(昭和4年(1929年)3月19日 田中義一外相宛電信)して、調印を推進しているところがあります。
また、仲裁・裁判手続きや違反者に対する制裁規定が欠如していても、「空文にとどまるものではない」、「活動性を持ってい」て、調印・批准された以上、どの国もこれを無視することはできず、抑制的行動を取るようになっていると述べています(安達峰一郎「国際連盟の発達は健全なりや」1930年)。
さらに、安達は1929年4月に国際法学者で元国務長官のE.ルート(米)が常設国際司法裁判所(PCIJ)規程改正委員会でアメリカの同裁判所に公式参加を表明(安達峰一郎「国際連盟の現状と常設国際裁判所判事の来秋総選挙」、1930年)しているし、1929年9月の国際連盟総会では英仏をはじめ応訴義務承諾国の拡大を見ているから、不戦条約を契機にして普遍的な紛争処理システムとしてのPCIJと国際連盟が発展することは可能だと見ているようです。
安達は、以上のような状況を踏まえて、PCIJ裁判官への立候補を決意するのです。
石井は、米国の上院をボラーが仕切っている以上米国のPCIJ参加は難しいと見ていたし、確かに上院は否定しましたが、普遍的な紛争処理システムの形成という安達が目指した地点の意義は失われないでしょう。
さて、5回にわたって、石井菊次郎との関係で安達の外交思想と行動を見てきました。最強コンビではありますが、国際民主主義への対応、ドイツ少数民族問題や多国間協調をめぐるアプローチ、不戦条約への対応等において、安達は石井が不十分であったところや積み残したところを補正して、国際連盟外交を軸にした国際協調外交の到達点を画したと言うと言い過ぎでしょうか。
ところで、1930年代に入ると、日本は満州事変によって石井と安達が積み上げたこの貴重な国際協調外交の到達点を解体させました。安達(そして石井)が築き上げた国際協調外交が再開するのは、十数年を経て、第二次世界大戦後、国際連盟の失敗を踏まえて国際連合が構成され、また日本国憲法が制定されることによってでした。条件は一変しましたが、それにしても、戦後74年、われわれは安達が目指した地点にどこまで近づいたのでしょう?
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