山形大学人文社会科学部附属研究所

山形大学人文社会科学部附属研究所

ホーム > 人文社会科学部附属研究所 > やまがた地域社会研究所:安達峰一郎研究資料室 > 資料室ブログ > 安達峰一郎と芦田均〜国際主義の系譜〜戦争違法化と集団安全保障の夢(その1)

資料室ブログ

このブログは、高校生・大学生、一般の方に、外交官・常設国際司法裁判所裁判官として活躍した安達峰一郎の「国際法にもとづく平和と正義」の精神を広く知って頂くために設けました。安達峰一郎に関するイベント等の情報、安達峰一郎の人となりや業績等に関わる資料紹介、コラムやエッセイ、今日の国際関係に関わる記事等を随時配信していきます。

安達峰一郎と芦田均〜国際主義の系譜〜戦争違法化と集団安全保障の夢(その1)

投稿日:2020年3月17日 投稿者:山形大学名誉教授 北川 忠明

 先のブログ(「安達峰一郎と石井菊次郎」1~5)の中で、駐仏大使・国際連盟日本代表時代(およそ1928年から1930年半ばまで)の安達が、1928年の不戦条約締結、1929年国際連盟総会における応訴義務(選択条項)受諾表明国の増大、米国の常設国際司法裁判所(PCIJ)への公式参加の可能性など、国際連盟とPCIJ強化を通じた普遍的な紛争処理システムの構築が可能だという展望の下、PCIJ裁判官選挙に立候補する経緯に触れました。
 これと関わりますが、この頃、安達はドイツの雑誌Volkermagazin誌から国際連盟10周年記念の寄稿を依頼され、原稿を書いています(1930年1月30日)。次のものですが、大変美しい文章で、安達の夢が語られています。一部ですが先ずこれを見ておきましょう。

 「既に25年前、日露戦争の直後に、私は国際連盟の創設を司った考えに似たような考えを持っていました。少し前までは常にヨーロッパと極東を分け隔て、乗り越え難いと考えられていたシベリアが非常にうまく整備されていた為、日露戦争の時ペテルスブルグ政府は数百万人の人間を満州での戦線に送り込むことができました。それ以来の進歩については話すに及びません。数か月前にドイツの飛行船が5日もかからないうちに日本に行くことができたことを想起する必要もないでしょう。40年以上前、私が自分の田舎を出発して首都東京まで来るときに、10日以上の旅を余儀なくされましたが、今日では数時間でその移動が可能になっています。
 相対的に見てかなり小さいヨーロッパですが、100年前はほとんど独立した数百の国家に分かれていました。今、私たちはヨーロッパの統一について話し合っています。ここで私が述べているのは自身の見解の一部にすぎませんが、すべてのことを考慮すると、国際連盟が人類の発展において絶対的に必要なものであると考えるに至りました。10年前にアメリカ合衆国の名高いウイルソン大統領が私たちに国際連盟を創設するよう提唱した時に、その機構が強固になることを確信していました。実際、一部の人々の誹謗中傷や嘲りがあったにも拘らず、国際連盟は10年の間、巨大な歩みを示してきました。それはこの機構が諸民族関係の自然な発展に合致したものだったからです。今後10年間で、国際連盟はさらに大きな発展を遂げ、アメリカ合衆国を組み入れるだけでなく、徐々に正常化しながら、ジュネーブのこの偉大な制度に近づいてきているソビエト連邦共和国も組み入れることになるでしょう。
 このような考えは私のヨーロッパやアメリカの多くの友人たちによってしばしば述べられてきましたが、専らヨーロッパやアメリカのものではない多くの文明要素を持った私のような人間の熟慮の結果であることからしても、この考えはとりわけ注目するに値します。」(紅ファイル6-318)

 安達が日露戦争直後から国際連盟のようなものを考えていたと述べている点は注意しておいてよいと思いますが、主内容は、ヨーロッパを中心に発展してきた国際連盟にはいずれアメリカも、そしてソ連も(不戦条約に調印していますから)加盟するであろうという展望の下に、ドイツ国民に国際連盟への賛同を訴えるというものです。
 しかし、安達の見通しは、満州事変と日本の国際連盟脱退、さらにナチス・ドイツによって打ち砕かれます。常設国際司法裁判所長をしていた安達は苦悩に打ちひしがれ、所長退任後、病魔に侵されて1934年12月に亡くなります。
 安達が構想していたことが実現するには、第二次世界大戦を経て国際連合の創設を待たなければなりませんでした。不戦条約から日本国憲法第9条への流れは言うまでもありませんが、敗戦国日本の再建において安達の国際主義はどのような経路で受け継がれるのでしょうか。
 連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の占領体制のもとで戦後日本の再建を担った5人の首相のうち3人は幣原喜重郎、吉田茂、芦田均という外交官出身の政治家でしたが、このうち、安達と最も近しい関係にあったのはおそらく芦田均(1887-1959)ではないかと思います。安達の国際主義に近いところで戦後も活躍した外交官出身の政治家で国際連合協会会長も務めた佐藤尚武もいますが、戦後再建に対してより影響力を持ったのは芦田でしょう。こう言われてもピンとこないかもしれませんから、次回以降、芦田に力点をおきながら見ていきましょう。

月別アーカイブ

年別アーカイブ

ページトップへ

ページトップへ

サイトマップを閉じる ▲