ホーム > 人文社会科学部附属研究所 > やまがた地域社会研究所:安達峰一郎研究資料室 > 資料室ブログ > 安達峰一郎と芦田均〜国際主義の系譜〜戦争違法化と集団安全保障の夢(その3)
このブログは、高校生・大学生、一般の方に、外交官・常設国際司法裁判所裁判官として活躍した安達峰一郎の「国際法にもとづく平和と正義」の精神を広く知って頂くために設けました。安達峰一郎に関するイベント等の情報、安達峰一郎の人となりや業績等に関わる資料紹介、コラムやエッセイ、今日の国際関係に関わる記事等を随時配信していきます。
投稿日:2020年3月24日
「日仏同志会」は、坂本龍馬の甥の長男で、東京帝国大学法学部卒業後南満州鉄道株式会社(満鉄)に入社し、1929年満鉄パリ出張所長として赴任した坂本直道(1892-1972)がイニシャチブをとったようです。坂本は、1932年夏、国際連盟日本代表になった松岡洋右に、連盟における日本の孤立化を危惧して、日仏議員友好連盟のようなものを提言した(和田桂子・松崎硯子・和田博文編『満鉄と日仏文化交流誌『フランス・ジャポン』』、ゆまに書房、2012年)のですが、松岡は国際連盟総会でリットン調査団報告に基づく勧告を拒否すると啖呵を切って退場しました。しかしフランスを去る時になって、日本の孤立を避けるため、坂本に日本に対する支持者を拡げる宣伝活動をするよう依頼したようです。大見得を切ったものの、内心では後悔していたのでしょう。
こうして坂本が曽我祐邦子爵に働きかけて1934年7月に設立されたのが本部を東京に置く「日仏同志会」です。総裁に徳川家達、会長に曽我を配し、「日仏関係の有力者」をメンバーとして、フランス下院内の「親日政治家」と日仏間の政治的・経済的提携を促進することを目的としたものでした。芦田は設立準備メンバーの一人で、坂本とともに理事として入っています。石井は顧問、この頃駐仏大使であった佐藤も(時期は不明ですが)理事として入ります。
ところで駐仏大使時代の安達が曽我、L.ルシュールとともに作ろうとした「日仏議員同盟会議」の日本側組織には、石井、幣原、新渡戸稲造といったリベラルな国際協調派の貴族院議員が含まれていましたが、どうもこれは、安達が駐仏大使を退任した後、満州事変の影響によるものか、1931年11月のルシュール逝去によるものかわかりませんが、中断したようです。曽我は「日仏同志会」設立発起人会の席上で、発足に至る経緯を説明して、「数年来の企図の実現」を喜び、「一時中絶した「日仏議員親善会」問題を復活せしむべく決心」したことに触れています(松尾邦之助『風来の記』、読売新聞社、1970年)。また、1928年に安達が関与したルシュールとの会談を想起した文章もあります。ですから、安達がコーディネートしていた「日仏議員同盟会議」の後身にあたるのが「日仏同志会」であると捉えてよいでしょう。
なお、「親日政治家」の中心にいたのはC.ペシャンという医師で共和右派の下院議員で、連盟において日本が孤立化しているときに、『国際連盟対日本』(1933年)という冊子を刊行して日本擁護の論陣を張っていたようです。
さて、日本の国際連盟脱退後、陸軍と外務省の中からは日本の脱退に続いたナチス・ドイツと接近する動きが出てきます。坂本たち「日仏同志会」主要メンバーは、これに対して、米英仏との連携をめざしていました。坂本は、自由主義的ジャーナリストの代表格・清沢洌が「見識ある人物」と評していた人物で、松岡(後に外相として日独伊三国同盟締結にあたります)とは別の思惑で動いたようです。芦田について言えば、日本の連盟脱退後も依然として連盟が重要であると考えていたようですから、連盟の中心国フランスとの関係は密にして、連盟や米英との関係をつけておくということでしょうか。
この「日仏同志会」は、日仏文化交流のための仏語雑誌『フランス・ジャポン』をパリの満鉄支部を拠点として刊行します。その編集者には当時読売新聞の特派員の肩書きを持った松尾邦之助(1899-1975)があたりました。松尾は1922年に渡仏し1940年まで滞在した新聞記者、翻訳家、文芸評論家として活躍した人物で、1926年に『日仏評論』(1930年廃刊)という仏語の文化交流雑誌を刊行します。駐仏大使時代の安達はこれを「日本国民の心の奥底」や「精神」を理解させるという難事業に取り組んだものとして激励する手紙を書いており(紅ファイル1-138)、感激した松尾がこれを『日仏評論』に掲載しています。
なお、『フランス・ジャポン』の寄稿者には、文学者を除くと、石井、佐藤、杉村といった連盟派で駐仏大使の経験者、芦田や長谷川如是閑のような自由主義者がいました。清沢洌のインタビュー記事もあります。雑誌はフランスに日本理解を深めさせることを目的としたようですが、反枢軸、反軍部の自由主義系ジャーナリストたちも寄稿していたのです。
以上のように見てくると、安達が駐仏大使時代に手がけていた「日仏議員同盟会議」や日仏文化交流支援は、満州事変と国際連盟脱退後、「日仏同志会」として形を変えて受け継がれていたように思えますが、「日仏同志会」が設立されたころ、PCIJ判事としてオランダの地にあった安達は1934年8月に病に倒れ、12月28日に亡くなります。『フランス・ジャポン』の第4号は、安達の死によって「日本の最も著名な外交官であり、司法官であり、政治家の一人が失われた」と訃報を掲載しています。
芦田は東京での安達の追悼会(1935年2月18日)に出席し、日記に次のように記していることを紹介しておきましょう。
「安達博士は矢張り一種の才物であったことを思ふ。然し僕は生まれ変つて来なけれバあんな人にハなれない」。(『芦田均日記 1905-1945 第3巻』、柏書房、2012年、684頁)。
芦田は安達に対して格別の畏敬の念を抱いていたようです。
さて、これから後の出来事、つまり、日中戦争の開幕、国際連盟の無力化と第二次世界大戦の勃発、日独伊三国同盟と太平洋戦争へ、といったことは割愛して、一足飛びに戦後のGHQによる占領の時期に移ります。
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