山形大学人文社会科学部附属研究所

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資料室ブログ

このブログは、高校生・大学生、一般の方に、外交官・常設国際司法裁判所裁判官として活躍した安達峰一郎の「国際法にもとづく平和と正義」の精神を広く知って頂くために設けました。安達峰一郎に関するイベント等の情報、安達峰一郎の人となりや業績等に関わる資料紹介、コラムやエッセイ、今日の国際関係に関わる記事等を随時配信していきます。

安達峰一郎と芦田均〜国際主義の系譜〜戦争違法化と集団安全保障の夢(その4)

投稿日:2020年3月27日 投稿者:山形大学名誉教授 北川 忠明

 芦田は、戦後、東久邇宮内閣の後組閣された幣原喜重郎内閣の厚生大臣に就任します。吉田茂は外務大臣です。1945年10月16日の閣議では、幣原首相は憲法を改正しなくとも解釈による運用で対応できるという態度だったようですが、芦田は現行欽定憲法はポツダム宣言第10項(「民主主義的傾向の復活強化」)と相入れない点があると見ていたようで、閣議では「インテリ層」は改正必至と考えているなどの発言をしています。また、吉田は「外務大臣の権限外」と消極的だったようです(原彬久『吉田茂』、岩波新書、2005年)。
 この後松本烝治国務相を中心にして憲法改正要綱が作られるのですが、これは大日本帝国憲法をさほど変えておらず、連合国最高司令官総司令部によって拒否されます。そして、1946年2月3日に提示されたマッカーサー三原則を基に総司令部案が作成されて、13日に日本政府に手渡されます。幣原首相は19日、22日と閣議を開き、受諾決定のもと、3月2日案が作成されます。詳細は省略しますが、この後は総司令部との交渉を経て作業が続けられ、4月17日に憲法改正草案が公表されます。帝国議会で審議が始まるのは6月20日からです(4月10日の衆議院議員総選挙の後、幣原内閣は退陣、吉田内閣が成立しています)。
 ここでは9条の発案者はマッカーサーか幣原かといった問題や、マッカーサー三原則に対するケーディス修正の問題(マッカーサー三原則第2原則は「国家の主権的権利としての戦争を廃棄する。日本は、紛争解決のための手段としての戦争、および自己の安全を保持するための手段としてのそれをも放棄する。……」としていましたが、ケーディス民政局次長の判断で下線部の自衛権放棄の所はカットされて、総司令部案では「第八条 国民ノ一主権トシテノ戦争ハ之ヲ廃止ス他ノ国民トノ紛争解決ノ手段トシテノ武力ノ威嚇又ハ使用ハ永久ニ之ヲ廃棄ス 陸軍、海軍、空軍又ハ其ノ他ノ戦力ハ決シテ許諾セラルルコト無カルヘク又交戦状態ノ権利ハ決シテ国家ニ授与セラルルコト無カルヘシ」とされたことに関する問題)など、議論の多いテーマには触れません。9条の原型にあたる戦争放棄や戦力放棄、交戦権放棄を規定した総司令部案の受け入れを日本政府が決めたときの議論が重要だと考えると、1946年2月22日の閣議に注意する必要があるでしょう。
 当時の閣議の様子は、通常『芦田均日記 第1巻』(進藤榮一, 下河辺元春編纂、岩波書店、1987年)や入江俊郎法制局次長の記録が参照されますから、ここでは芦田の日記を参照しましょう。そこでは、21日のマッカーサーと幣原の会談で、マッカーサーが憲法改正に関する権限を持つ極東委員会の空気を伝え、「日本の為めに図るに寧ろ第二章(草案)の如く国策遂行の為めにする戦争を抛棄すると声明して日本がMoral Leadershipを握るべきだと思ふ」としたのに対して、 幣原は「leadershipと云ハれるが、恐らく誰もfollowerとならないだらうと云った」ことなどが伝えられています。幣原はためらいがちのように見受けられますが、マッカーサーの態度に「理解ある意見」を述べたとのことです。
 松本国務相は不満を述べ、ドイツ・南米の例を引きつつ「外より押つけた憲法」への危惧を表明しています。安倍能成文相は第一条の主権在民は帝国憲法と「principleに於て」かなり「相反する」ものであり、「戦争抛棄の如きも亦現憲法と多大の相違ありと思ハる」と述べたようです。
 これに対して芦田は次のように述べたとのことです。
 「戦争廃棄といひ、国際紛争は武力によらずして仲裁と調停とにより解決せらるべしと言ふ思想は既にKellog Pact(不戦条約)とCovenant(国際連盟規約)とに於て吾政府が受諾した政策であり、決して耳新しいものではない。敵側は日本が此等の条約を破つたことが今回の戦争原因であつたと言つてゐる。又旧来の欽定憲法と雖、満洲事変以来常に蹂躙されて来た。欽定憲法なるが故に守られると考へることは誤である。…」
 さすがに反軍主義の自由主義者にして、国際連盟外交を経験した国際主義者です。「押しつけ」とはいっても、かつて日本は国際連盟規約と不戦条約に署名し「国策遂行の為めにする戦争」の放棄を受諾していたのだから、草案を受諾しない理由はないということでしょう。想像でしかありませんが、この時安達が存命であれば同じような言葉を発したのではないでしょうか。安達は、1920年代末の日本において、戦争違法化と集団安全保障構築など国際主義の流れの先端にいた外交官です。資料的裏付けがあるわけではないですが、安達と芦田の関係も考慮してこのように想像力を働かしてもおかしくはないように思います。また、芦田の発言がなんらかの影響を持ち、議論の結果「かくて内閣案が一決」(入江俊郎)したのであれば、必ずしも英米系とは言えない安達・芦田の国際主義の系譜が果たした役割を再評価してよいのではないでしょうか。
 この後、芦田は衆議院において帝国憲法改正案委員会委員長となり憲法審議を進めます。ここで有名な(第9条第2項冒頭の「前項の目的を達するため」の挿入などに関する)「芦田修正」の問題が出てくるのですが、その真相はともかく、近年の研究が指摘するように、この頃の芦田の考え方は、国連憲章の精神と整合的に憲法第9条を捉え、講和後に国連加盟が実現されたとき、日本は自衛権と自衛のための戦力を保有し、集団安全保障に貢献するというものだったでしょう。
 しかし、戦争違法化と集団安全保障の安達の構想が満州事変によって打ち砕かれたように、芦田の構想も日本国憲法施行(1947年5月3日)直前から始まる米ソ冷戦によって変容を迫られます。朝鮮戦争勃発後の芦田の再軍備論などには触れませんが、これは別として、米ソ冷戦の終結後、米中新冷戦の時代と言われる今日でも、安達と芦田の国際主義もまた戦後日本の原点を構成するものとして押さえておくことは必要でしょう。

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