山形大学人文社会科学部附属研究所

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資料室ブログ

このブログは、高校生・大学生、一般の方に、外交官・常設国際司法裁判所裁判官として活躍した安達峰一郎の「国際法にもとづく平和と正義」の精神を広く知って頂くために設けました。安達峰一郎に関するイベント等の情報、安達峰一郎の人となりや業績等に関わる資料紹介、コラムやエッセイ、今日の国際関係に関わる記事等を随時配信していきます。

安達峰一郎がいない国際連盟理事会

投稿日:2022年3月16日 投稿者:山形大学名誉教授 北川忠明

2022年2月24日ロシアのウクライナ侵略の報に接して、1931年9月18日に勃発した満州事変を想起した人も多いことと思います。前者はプーチン大統領が決定し、後者は関東軍の謀略によるものという違いはあるにせよ、当時日本は国際連盟理事会常任理事国、今日ロシアは国際連合安全保障理事会常任理事国で、両国とも常任理事国です。国連総会でロシア非難決議が採択されたものの、まだ停戦が見通せない現在(3月9日)ですが、以下では、安達峰一郎との関係で、関東軍が暴走していた満州事変期における国際連盟日本代表部に関係するトピックを書き留めておきたいと思います。

満州事変当時、安達はオランダのハーグで常設国際司法裁判所長の要職にあり、国際連盟における満州事変対応は、安達の後任の駐仏大使・国際連盟日本代表である芳澤謙吉を中心にした国際連盟日本代表部で行われていました。

安達から芳澤への交代は1930年半ばのことで、内閣は濱口雄幸・立憲民政党内閣、外相は幣原喜重郎で第二次幣原外交の時期です。芳澤は長く中華民国特命全権公使を務めた対中国政策のエキスパートですから、国際連盟に日中紛争事案が提出されたときの対応を考えてのことであろうと推測されます。当時は、濱口内閣の前の田中義一・立憲政友会内閣時代に、山東出兵を三度行うなど、対中強硬外交が行われ、日中関係は悪化するばかりでした。第二次出兵後の済南事件(1928年5月3日に起こった済南での武力衝突事件)については、南京政府から国際連盟に提訴がありましたが、代表権は北京の中華民国政府にあるという日本側の主張もあって、承認されませんでした。この件の対応にあたっていたのは国際連盟事務局次長の杉村陽太郎ですが、安達は当時の連盟日本代表でしたから、ともに苦労していました。

このような背景があって芳澤が駐仏大使・国際連盟日本代表に抜擢されたと推測されますが、これとほぼ同時期に、国際連盟日本事務局長として安達を補佐した佐藤尚武が駐ベルギー大使に転じ、澤田節蔵(1884-1976)が佐藤の後任となります。

澤田のフランス勤務は3回目のことで、日本国際連盟協会を組織するなど連盟での活動を待望していた国際連盟派の外交官です。
『澤田節蔵回想録』(『日本外交史人物叢書 第19巻』、2003年、ゆまに書房)の中で、澤田はこの時期の国際連盟外交について、欧州少数民族問題は「先輩石井菊次郎、安達峯一朗、佐藤尚武各大使が苦労し続けられた問題であるが」、「芳沢氏は、理事会にもたびたび出席の経験を持っておられたが、連盟関係のことには詳しくなく、ことに欧州少数民族問題については全て私に任せ切りであった」(128頁)と、書いています。
これに対して「安達大使は仏国勤務が長く、連盟創立の功労者で、連盟における功績は各方面で頗る高く評価されていた。厄介きわまる少数民族問題の処理に当っても、新鋭優秀な佐藤局長の補佐のもとに次から次と持上がる各種案件を見事に処理された」(139頁)、「安達大使は大いに日本の声価を高められた」(140頁)とことのほか高く評価しています。

さらに澤田は、満州事変時の国際連盟対応について次のように述べています。連盟日本代表は「英語か仏語によって遺憾なく我が立場を説明し、会議参加国の多数をわが国の主張に同調せしめるだけの外国語の能力を備えていなければならない」(152頁)。芳澤大使は中国問題については「人後に落ちざる権威者」で、満州問題を扱うには適任であったが、「ところが満州問題の如き大政治問題を取り扱う会議では普通の標準で英仏語が堪能だという程度では足りず、言葉のうえからも真に英仏人の敬意を招くぐらいでなければならない。この見地からすると芳沢さんの表現力は十分とはいえなかった」(152頁)。そして、1931年11月にパリで開催された連盟理事会における仏外相A.ブリアン議長と芳澤とのやりとりに言及して、そのチグハグな様子が伝えられています。
要するに芳澤大使は中国問題の権威で専門性においては最適任であったが、国際連盟の事業には詳しくなく、英仏語能力も十分でなかったということです。さらに付け加えると、安達がブリアン外相の腹心L.ルシュールとともに取り組んでいた「日仏議員親善会」結成による政治的提携強化の動きも、芳澤への交代によって途切れたのではないかと推測されます。

安達は事変案件が常設国際司法裁判所に諮問されたときには「日支ノ満州ニ於ケル関係ニ付テハ殆ト無知」だから日本の立場を理解せしめることは困難だと危惧していましたから、満州問題において卓越したエキスパートであった芳澤が適任であったことはその通りです。しかし、国際連盟との連携や日仏の外交的・政治的提携関係が弱化していたことも否めないのではないでしょうか。そして、この点が日本代表部が苦労することになった一因のようです。

もちろん国際連盟との連携がうまくいかなかったもっと大きい理由は、連盟の関与を避けて日中二国間交渉にこだわった幣原外相・日本政府と、連盟の威信をかけて早期解決を模索する連盟理事会との対立にあります。10月に入って関東軍の暴走が止まらない中で、A.ブリアンが議長を務める連盟理事会は、連盟非加盟国アメリカのオブザーバー参加を決めますが、これにより、日本側との対立が激しくなります。世評とは異なるかもしれませんが、幣原はもともと連盟外交のような会議外交よりも伝統的な二国間外交志向が強い外交官です。他方、ブリアンとフランス側が日本軍の即時撤兵と早期解決を強く求めたのは、前年1930年9月にドイツ国会選挙でヴェルサイユ体制打倒を掲げるナチスが台頭しており、満州事変が同じく常任理事国ドイツによるポーランド回廊占拠のような事態の先例になることを恐れたからでもあります。

このとき日本代表部は、日本政府と幣原外相に対して、対連盟強硬姿勢を改めるよう意見を提出し、また佐藤はアメリカのオブザーバー参加は「容認」するのが得策ではないか、満洲問題を「連盟ノ範囲内ニ於テ解決スル」ことも必ずしも不可能ではないのではないかと具申します(幣原外相宛電信、1931年10月(19)日)が、奏功しません。

結局、連盟対日本の様相は連盟理事会における調査団(リットン調査団)派遣決定でひとまず収まるのですが、その後の展開はよく知られている通りで(1)、翌1932年秋のリットン報告書では日本軍の行動は「自衛の措置」とは認められず、「満州国」も日本軍と日本の文武官吏の活動なしには成立しなかったとされ、1933年2月24日の連盟総会における勧告書採択の結果、最終的に日本は国際連盟を脱退。このときも澤田は、脱退は日本の国際的孤立を招くと断固反対の立場から、松岡洋右日本代表の「連盟脱退のほか途なし」とする政府への電信送付の中止を強力に求めましたが、叶いませんでした。

以上、澤田の『回想録』によりながら、満州事変期の対国際連盟外交の一コマに触れました。もちろん、謀略によって始められた侵略戦争=満州事変の衝撃は途轍もなく大きいもので、安達が日本代表であったならば、とか、連盟の関与を回避しなければどうであったか、というようなことを超えたレベルのものであったでしょう。関東軍の暴走が制止されない事態の只中で行われた日本の連盟派外交官の孤軍奮闘が報われることはありませんでした。

澤田は、日本の国際連盟脱退が第二次世界大戦への起点になったことを痛恨の思いで語っていますが、これに関連して以下一点のみ簡単に付け加えておきます。日本の国際連盟脱退宣言後は、日仏関係はさらに希薄になります。フランスは、日本脱退に続いて脱退したナチス・ドイツに対抗して、イギリスとともに連盟を維持することに傾注し、ソ連・東欧諸国との関係を強化します(ソ連の国際連盟加盟は1934年9月)。他方、安達大使の後は日仏の政治的連携関係がエアポケットに入った感がありますが、日本陸軍内では、親仏派の上原勇作派の系譜で、事変を契機に主流になった荒木貞夫陸相中心の皇道派が、北一輝に呼応して、連盟脱退を想定し、英米に対抗して日仏同盟を結ぶというプランを進めました。これは、集団安全保障重視のフランスに相手にされるはずがありません。それゆえ、連盟脱退とともに、国際連盟だけでなく日仏関係が持っていた重しもとれて、日本陸軍内ではドイツ駐在武官であった親ナチの大島浩を中心とした親独派が台頭し、日本外交に影響力を振るいます。陸軍内の主導権争いとしては皇道派と統制派のそれが有名ですが、親仏派と親ナチ的な親独派との路線交代も目立たない形で進んだようです。そのあとは、ソ連を仮想敵とした日独防共協定(1936年)から、第二次世界大戦勃発の後、フランス領インドシナ北部進駐とほぼ同時にアメリカを仮想敵国とした日独伊三国同盟(1940年)への途を歩みます(芦田均のところで言及した「日仏同志会」は日仏の政治的提携関係を構築しようとしたもので、その主要メンバーは日独伊接近阻止派です)。その途上で日本は日中戦争(1937年)の泥沼に入り込んでいました。

現在、ロシアのウクライナ侵略に対しては、国連安保理に提出された即時撤退決議案がロシアの拒否権に阻まれたものの、総会が非難決議を挙げ、アメリカを中心に経済制裁が行われています。第二次世界大戦・太平洋戦争に至る大筋を考えると、歴史的状況が異なるとはいえ、「願わくは、1930年代と同じ轍を踏まないことを!」と思わざるを得ません。

余談ですが、満州事変の首謀者が石原莞爾で、満州事変前の三月事件や事変勃発後の十月事件というクーデタ未遂、血盟団事件、五・一五事件などに深く関わったのが大川周明です。両人とも安達と同じ山形県出身者であったことには、なんと言ってよいのか、言葉が見つかりません。

 


(1) 「満州国」独立宣言(1932年3月1日)の後に起こる「満州国」承認問題でも、日本代表部は、国際連盟との対立を激化させないよう承認の遷延を政府に要請していました。なお、安達は、事変に関する中国の訴えを常設国際司法裁判所で審理することになれば、紛争解決手続に関する連盟規約第15条からしても、また満蒙特殊権益に関しても、日本の主張が受け入れられる見込みはないという趣旨の手紙を、斎藤実首相宛(1932年5月27日)に送っています(柳原正治編『世界万国の平和を期して 安達峰一郎著作選』、東京大学出版会、2019年、所収)。

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