山形大学人文社会科学部附属研究所

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資料室ブログ

このブログは、高校生・大学生、一般の方に、外交官・常設国際司法裁判所裁判官として活躍した安達峰一郎の「国際法にもとづく平和と正義」の精神を広く知って頂くために設けました。安達峰一郎に関するイベント等の情報、安達峰一郎の人となりや業績等に関わる資料紹介、コラムやエッセイ、今日の国際関係に関わる記事等を随時配信していきます。

駐メキシコ公使時代の安達峰一郎―安達峰一郎とウッドロー・ウィルソン―(6) ウィルソン外交の隘路

投稿日:2018年10月16日 投稿者:山形大学人文社会科学部教授 北川忠明

 1914年に入ってアメリカ・メキシコ関係はますます悪化します。
 ウィルソン大統領は、1月にはカランサら「立憲派」を反ウエルタ勢力と認め、同派に武器禁輸を解除することを決定しました。日本の対応はますます苦しくなります。日本も欧州諸国も正統政府と認めたウエルタ政府に対抗するカランサ派をアメリカが支援するのですから。
 そして、安達は、案の定、「在メキシコ日本公使が不当に多大なる同情をウエルタ政府に寄せ居る」と米国務長官から指摘されることになります(珍田捨巳駐米大使から牧野外相宛、1914年1月29日付け)。アメリカからの日本への牽制と言ってよいと思いますが、安達は事実無根だと牧野外相に連絡しています。ともかく、アメリカでは歪曲された様々な風説が流され、日米メキシコ関係は錯綜を極めます。安達が、1914年4月6日付け阪谷芳郎宛書簡で「最も機微なる日米墨問題の紛糾せる今日、小生に取りては、非常なる苦痛に御座候」と書いていますが、それは以上のような事情によります。
 そして、こう安達が伝えた直後、4月9日にタンピコ事件が起ります。
 同日、ウエルタ支配地域のタンピコで、無断上陸したアメリカ水兵をメキシコ軍が逮捕する事件が起きました。これをきっかけに、アメリカ、メキシコ両軍がにらみ合う事態になり、ウィルソンはヴェラクルスへ軍隊を派遣します。名目はドイツ船がウエルタ軍への武器輸送で入港することを阻止するためだということで議会の承認を得ましたが、21日両国軍が戦闘に入ります。
 ウエルタはただちにアメリカとの国交断絶を宣言します。カランサもアメリカの侵略を非難し、収拾がつかなくなってきます。そこで、アルゼンチン・ブラジル・チリの三国が調停を申し入れ、ウィルソンが4月25日にそれを受け入れます。調停会議では、双方が撤兵し、ウエルタがカランサに譲歩して辞任することも決められます(7月1日、プロトコル調印)。そして、結局7月15日にウエルタ政府が崩壊し、その後、カランサが首都入京しますが、ビリャ派・サパタ派が反対派に回り、内戦は収まることはありません。安達は、この間6月にサユラで遭難することになりますが、駐メキシコ公使時代の最もドラマチックな事件で、これについては『書簡集』に収録されている講演録「サユラでの遭難」を見て下さい。
 サユラでの遭難によって得た病が癒えて、帰国が決まったあと、安達は1915年3月15日付け小川平吉宛書簡で、「当国(注―メキシコ)は麻よりも乱れたる濁世打ち続き」と近況を述べ、次のように伝えています。この部分は公文書に現れない安達の本音が見られる箇所です。

 「現今はヴィヤ(注―ビリャ)の天下なるも、何日迄(いつまで)持続すべきや。当国に於(お)いては百日天下たること至難に御座候(ござそうろう)。追想すれば、ウエルタは兎(と)に角(かく)傑物(けつぶつ)なりしが、唯(た)だ米大統領の深い執念に罹(かか)り、遂(つい)に没落せり。墨国(メキシコ)の現状の責任者は、もちろん、墨国(メキシコ)人間の確執なるも、これを隠密に灯し付くる米国の責任尚更(なおさら)大なり。去乍(さりながら)、欧州も日本も何等これに対し為(な)し得ざるにつき、墨国(メキシコ)は遂(つい)に米国よりなぶり殺しになるに相違なかるべく、亡国の道行(みちゆき)、一掬(いっきく)の涙、相流申候(あいながしもうしそうろう)。」

 安達はウィルソン大統領とアメリカの干渉がウエルタを没落させ、メキシコの動乱に拍車をかけた一因と見ているようです。

駐メキシコ公使時代の安達峰一郎―安達峰一郎とウッドロー・ウィルソン―(5) 錯綜する日・米・メキシコ関係

投稿日:2018年10月12日 投稿者:山形大学人文社会科学部教授 北川忠明

 安達の着任時には、前回見たようにウィルソンとウエルタ政府との関係は険悪の一途を辿っていました。
 安達は着任後、臨時政府承認に関する「天皇陛下の御答翰」を捧持し、それに対してウエルタ政府は答礼使節を日本に派遣することを決定しました。安達は「米国政府が未だ現メキシコ国仮政府に承認を与えざること及び米国人が往々北部の叛徒を援助しおること」は現政府に忠実なメキシコ人一般が憤慨していることで、8月に入ってますます反米感情が高まっていることを報告し、答礼使節派遣は、日米間の係争問題に乗じて何か謀(はかりごと)があるような深い政治的意味はないと思われると述べて、日本政府の対応を依頼しています。しかしアメリカとウエルタ政府との関係は険悪になっているので、日本政府は相当に慎重です。
 また、安達は、「メキシコ駐在の各国公使連の話」として、米国の底意はメキシコに内乱を起こし、好機に乗じてメキシコを分割し、親米的な一、二の共和国を樹立してパナマへの陸路を掌握しようとするもので、これまでの中南米におけるアメリカの行動からしてそう推測できるという話や、米国は北方の「叛徒」(注―カランサ派)に内密の援助を与え、内乱を継続させようとしているのだという話を牧野伸顕外相に伝えています。さらに、米国に対する忠告をするため、安達にも欧州諸国公使間の会議に出席してもらいたいとの意向があること、また欧州各国にならって軍艦を派遣してほしいとの意向があることを伝えています。
 欧州諸国の要請に対して、安達は、日米両国の親善とアジア問題が重要であることを日本の立場として伝えますが、日本政府には「主義として欧州諸国と協調すること」で臨むと伝えています。アメリカ・メキシコ関係が相当に悪化していますし、日米関係も移民問題をめぐって悪化しています。このような状況の中で、安達は日本単独でアメリカに対応することはできないので、欧州諸国と協調して対応するというスタンスをとります(牧野外相宛、1913年8月10日付け)。
 他方、牧野外相と珍田駐米大使は日米関係を重視して、これ以上日米関係が悪化しないように、米国の意向も無視しないようにと気を使い、軍艦派遣には及び腰です。
 そうするうちに、10月に、旧マデロ大統領派議員の失踪事件をきっかけとして上下両院で政府批判が高まった折に、ウエルタが両院を解散し、10月26日に大統領選挙と同日に選挙を行うことにします。アメリカはこれを暴挙、反憲法的と非難しますが、選挙は26日に行われます。大統領選ではカランサは公正な選挙が望めないとして選挙参加を拒否し、その結果元大統領のディアスが当選します。アメリカはディアスを支援していたようですが、ウエルタは、選挙場の数が規定通りではなかったとして、新議会にディアスの当選を無効と宣言させ、臨時政府の継続を図ります。これに対してウィルソン米大統領はウエルタの辞任を迫ります。
 状況はますます混沌としたものになります。欧州諸国からは日本も軍艦派遣をという要請が強まり、11月初旬、駐メキシコ・フランス公使が安達を訪問して、米国官民の行動によって内乱がますます拡大している状況だから、日本も「インデファレンス」(無関心)の態度を続けると発言権を失いますよとの忠告を受けます。
 実は安達もこの忠告に先立って、牧野外相宛に軍艦派遣を要請していますが、アメリカを刺激しないように「ヴィジット・オブ・カーテシー」(表敬訪問のことです)として派遣してはどうかと打診しています。こういう中でのフランス公使の訪問だったのですが、日本政府も対応に苦慮します。が、結局「在留邦人保護を目的」として軍艦出雲を派遣するのです。こうして、12月22日、軍艦出雲がマンゼニョ港に着港します。
 安達も日米関係を気にしていたものの、日本・メキシコ通商関係を発展させるというミッションを達成するためにも、対欧州諸国協調を優先して、出雲派遣に動いたというところでしょう。

駐メキシコ公使時代の安達峰一郎―安達峰一郎とウッドロー・ウィルソン―(4) 安達のミッション

投稿日:2018年10月9日 投稿者:山形大学人文社会科学部教授 北川忠明

 安達がメキシコに着任したのは1913年7月22日のことです。同日付けで牧野伸顕外務大臣に着任報告をしていますが、その中でマンサニョ港から鉄道で移動する過程で、諸都市の駅に停車するたびに「日本万歳」の大歓迎を受けたことを伝えています。が、そこは慧眼の安達、この歓迎ぶりがウエルタ政府の手によるものでもあると見抜いており、ある都市では、日本万歳の声とともに「米国人死せよ」の声もあって、反米感情の高まりがあることを伝えています。そして、安達は「民衆の反米感情に迎合せざることに努め日本メキシコ両国間の親善は専ら商工業の関係を発達せしむる」にあると繰り返し述べておいたとしています。
 安達が大歓迎を受けた背景には、アメリカとメキシコのウエルタ政府との関係が悪化する中で反米親日感情の高まりがあったわけですが、日本・メキシコの友好関係があったことも見逃せません。安達のミッションに関わるので、簡潔に見ておきましょう。
 日本とメキシコが通商条約を結んだのは1888年のことです。それまで欧米列強と結んだ通商条約は、日本の関税自主権のない、治外法権を認めた不平等条約でしたが、日墨(メキシコは漢字で墨国と書きます)修好通商条約は、本格的なものとしては初めての平等条約でした。日本が、1889年に大日本帝国憲法を発布し、翌年国会開設を果たして近代国家の体裁を作り上げる時期です。日墨修好通商条約締結を行ったのは、不平等条約改正に辣腕を揮った睦奥宗光でした。睦奥宗光は1888年に駐米公使になったのですが、初代の駐メキシコ公使を兼任して、条約締結を行ったのです。日本がこの平等条約をいかに待望していたかは、在日本メキシコ公使館が他国の公使館と異なり永田町に建設されたことにも窺われます。
 メキシコの方は、先に見たように、ディアス独裁体制の時代で、近代化改革を推進し、外国との通商も積極的に拡大していた時代です。メキシコは労働力不足で移民を必要としていたし、日本も移民送り出しを進めていた時代です。このメキシコ移民を推進したのは、榎本武揚です。榎本武揚は、旧幕府軍を率いて戊辰戦争を闘い、函館に蝦夷共和国を開いた人として有名です。明治になってからは、大臣職を歴任し、殖産興業にも貢献しました。榎本は、1893年に外務大臣を辞任後、「植民協会」を設立し、1897年にメキシコに向け植民団を派遣します。ラテン・アメリカへの日本人移民はメキシコから始まったのです。ですから、移民の送り出しと受入を通じて日本・メキシコの友好関係の基盤が形成されていたと見てよいでしょう。
 この頃はメキシコ(ほかにカナダ、ハワイ)を経由して日本人移民がアメリカに流入することも多かったのですが、アメリカでは移民排斥の動きが昂じて、1907年の「日米紳士協約」によってアメリカへの移民が制限されました。ですから、メキシコへの移民は1908年以後激減し、ペルー、ブラジルへの移民が多くなります。しかし、その後もアメリカでは移民排斥の動きは強く、1913年に「帰化不能外国人」の土地所有を禁じたカリフォルニア州法が制定され、日米関係が悪化していました。
 ところで、メキシコは鉱物資源の豊富な国です。ディアズ独裁体制時代の1880年代から、アメリカ、フランス、イギリスの外国資本が鉱山開発に乗り出し、工業化を進めていました。ドイツは遅れて参入します。日本は日露戦争の勝利によって列強の仲間入りを果たしたばかりで、メキシコにはほとんど利権を持っていなかった時代です。先に述べたような事情でメキシコへの移民送り出しの時代は終わり、安達が述べていたように、「日本メキシコ両国間の親善は専ら商工業の関係を発達」させることが課題でした。
 駐メキシコ公使としての安達が「利権拡張を重視していた」ために、日本の影響力拡大は列強から注目されていたとメキシコ史関係の本には書かれていますが、それは、安達のミッションが日本・メキシコの通商関係拡大にあったからです。

駐メキシコ公使時代の安達峰一郎―安達峰一郎とウッドロー・ウィルソン―(3) メキシコ動乱とウィルソン大統領

投稿日:2018年10月5日 投稿者:山形大学人文社会科学部教授 北川忠明

 安達がメキシコに到着したのが1913年7月で、その前の2月21日にマデロが暗殺されメキシコ革命も混乱の一途を辿っていた時期です。安達の前任者は、堀口九万一(くまいち)公使です。詩人・文学者の堀口大學の父親です。安達着任までの動きをフォローしておきましょう。
 2月9日朝、革命騒動が起り、元大統領のディアスを担いで政府転覆の動きも現れるなかで、マデロ大統領夫人と両親たち家族が日本公使館に避難してきたようです。堀口公使は政治的動きがないよう注意しながら、保護に努めるのですが、2月18日、ウエルタ将軍が軍を率いて、マデロ大統領と政府要人を捕虜にします。2月20日には、マデロ大統領が辞任し、ウエルタが臨時の大統領に就任します。なお、22日には、ウエルタが新内閣を組閣し、各国公使からなる外交団と接見しました。そのとき、旧外務大臣から、前大統領の家族の保護に対して謝礼が述べられ、日本人の道徳性の高さについて評判が高まったと、堀口公使は報告しています。
 このとき、臨時政府の中は、ウエルタ派と大統領選出馬に意欲を持つディアスを担ぐディアス派が暗闘していて、不安定ですが、ウエルタ派が有力な状況です。また、メキシコ北部諸州では反乱の動きが活発になっていて、カランサ派が米国の領土内から北部諸州の叛徒と通じていること、分離独立の動きには米国資本家の後援があること、米国政府も事変に乗じようとする米国資本家を度外視できない状況であることなどが伝えられています。
 このような情勢の中で、メキシコ臨時政府承認問題が起ります。当時の駐メキシコ米国大使はヘンリー・ウィルソンで、2月には率先してウエルタ大統領就任を承認するとしていたのに、3月に突如、外交団は仮政府の正式承認を保留するという提案をしたのです。このアメリカの提案に反対して、先ずイギリスが、次いでフランスがウエルタ政府を承認し、他の欧州諸国と南米諸国も続きます。こう伝えているのは田辺熊三郎臨時代理公使ですが、アメリカだけ保留としているのは、1910年のマデロの革命争乱時に米国人が蒙った損害の賠償問題やチャミサル(現在はアメリカのニューメキシコ州にあります)領土問題等の懸案問題を同時に解決することを条件にしたいという背景事情があったようです。
 さらに、3月4日に就任したウッドロー・ウィルソン大統領は、ウエルタ政府は法に基づいた正統政府ではないという言い分で不承認を主張します。ウィルソン大統領は駐メキシコ大使を呼んで会談し、大使が政権承認を主張したので、その大使を辞任させ、前ミネソタ州知事のジョン・リンドを特使してウエルタのもとに派遣しますが、リンドとウエルタは決裂してしまいます。アメリカの提案は、各派の戦闘休止、大統領公選の実行、ウエルタは立候補しないこと等でした。
 安達が着任したのは、このように、ウィルソンがウエルタ政府承認問題をめぐってメキシコに介入した頃で、またメキシコ国内の混乱が増幅しつつあった時代です。

駐メキシコ公使時代の安達峰一郎―安達峰一郎とウッドロー・ウィルソン―(2)「メキシコ革命」の時代

投稿日:2018年10月2日 投稿者:山形大学人文社会科学部教授 北川忠明

 安達が、駐メキシコ公使に任ぜられたのが、1913年(大正2年)1月8日、メキシコに向け出発したのが5月、到着したのが7月22日です。ウィルソンの方は、1912年11月の大統領選挙で当選、1913年3月4日に大統領に就任しています。
 当時は、1910年に始まり1940年に終結するとされる「メキシコ革命」の時代です。今回はメキシコ史に関する本(国本伊代『メキシコの歴史』、新評論、2002年。同『メキシコ革命』、山川出版社、2008年)にそって、簡潔に粗描しておきます。
 メキシコ革命は、ポルフォリオ・ディアスの独裁体制の打倒を目指してフランシスコ・マデロが武装蜂起した1910年11月20日に始まります。打倒されたディアス体制の時代は、1876年から1911年までの35年間にわたって存続しました。1821年にスペインから独立して以来不安定であったメキシコ政治が長期安定を迎えた時代のようです。ディアス体制は、自由主義経済の確立を目指し、近代化を推進した時代です。この自由主義化と近代化の中で、産業化が発展し、貧富の格差は増大していきます。上からの近代化推進ですから、伝統的支配層と結託して進められるわけですが、これに対して政治的民主化を求める運動や前近代的な社会・経済構造を変革しようとする運動が起り、1910年のマデロの武装蜂起によって、ディアス独裁体制が崩壊するのです。ここから始まる革命動乱は、1920年にはひとまず収まるようですが、ほんとうに混沌とした時代で、概ね次のように5段階に区分されています。
 第1段階―1910年11月20日のマデロの武装蜂起の日から、ディアス大統領が亡命する1911年5月まで。
 第2段階―マデロが実権を握り、さらに選挙で大統領に選出されたものの、改革に取り組む過程で暗殺された1913年2月21日まで。この時期は政治の民主化を最優先課題としたマデロと、農地改革を要求する急進的な農民勢力が対立した時期でもあるようです。
 第3段階―マデロが暗殺され、1914年7月15日まで実権を握ったヴィクトリアーノ・ウエルタ将軍の「反革命政権」の時代。この時期は血みどろの動乱の時代で、北部諸州の自由主義勢力を結集し「護憲派」勢力として台頭したカランサをリーダーとして、ウエルタ政府が倒されることになります。
 第4段階―ウエルタ政府倒壊後、革命勢力のなかでフランシスコ・ビリャ派とエミリアーノ・サパタ派の政府、ヴェヌスティアーノ・カランサ派の政府の二つの政府が生まれ、内戦が展開するが、カランサ派が国土の9割を支配下に治める1915年10月まで。
 第5段階―カランサ派が1917年に革命憲法を制定した後、大統領となったカランサがクーデタで殺害される1920年までの時期。
 安達が駐メキシコ公使を務めたのは、よりにもよって第3段階と第4段階の大動乱の時代でした。そして、駐メキシコ公使としての安達はこの動乱の中でドラマチックな体験をすることになります。

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