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このブログは、高校生・大学生、一般の方に、外交官・常設国際司法裁判所裁判官として活躍した安達峰一郎の「国際法にもとづく平和と正義」の精神を広く知って頂くために設けました。安達峰一郎に関するイベント等の情報、安達峰一郎の人となりや業績等に関わる資料紹介、コラムやエッセイ、今日の国際関係に関わる記事等を随時配信していきます。
投稿日:2020年2月19日
1929年6月、スペイン・マドリードで開催された国際連盟理事会での安達の活躍については、早稲田大学の篠原初枝先生が詳しく紹介されています(篠原初枝「国際連盟外交―ヨーロッパ国際政治と日本」井上寿一編『外交史 戦前編』シリーズ日本の外交第1巻、岩波書店、2013年)。マドリードの理事会では、安達は議長として数々の案件を的確に処理したのですから、それだけでも特筆に値することですが、さらに安達が前年来「報告者」として精力的かつ誠意を込めて取り組んできたドイツ・ポーランド間の少数民族問題がマドリードで一定の解決をみたことは、安達にとってはなによりもうれしかったことですし、ヨーロッパにおける安達の声望を一層高めることになった点でも重要です。このドイツ・ポーランド間で紛糾した少数民族問題の解決に尽力した安達の行動については、北川先生も石井菊次郎との関係で論じています(資料室ブログ「安達峰一郎と石井菊次郎―4」投稿日2019年10月28日)。
安達は、1929年2月中旬、友人の立作太郎宛の手紙の末尾で「私はまもなくジュネーブにむけて出発いたしますが、ジュネーブでは、ヨーロッパの少数民族問題という重大な問題が私を待ちうけております。この問題の解決のために、私はしばらく前から全力を傾けてまいりました。良識と相互の譲り合い精神が同問題に対する望ましい解決をもたらしてくれるものと期待しております。もしもそうならなければ、そこにはきわめて深刻な不和が引き起こされる恐れがあります」と綴り(紅ファイル3-253, 立作太郎教授, 東京, 1929年2月14日)、また少数民族問題に造詣の深い英国のチェンバレン外相にも「貴兄がお認めくださいましたので、外務省の著名な法律顧問であるマルキン(Malkin)氏が少数民族問題の法律的な検討作業のため、私のもとにやってまいりました。氏は、厳しい寒さもものともせず、海を越え、まる二日間、同問題のとても厄介な検討作業に専心してくださいました。私は、法律面でのこの大変に素晴らしい検討結果をとてもうれしく思っておりますし、法律家たちによる結論がこの困難な問題を検討する関係者すべてを納得させることと確信しております」と書き送っています(紅ファイル3-266, Austen CHAMBERLAIN卿, 外務省気付, ロンドン, 1929年2月18日)。
さらにフランス外務省のベルトロ事務総長宛の書簡では「私は明日ジュネーブに向かいます。少数民族問題の成り行きに大きな不安を抱いております。双方の良識が最終的には勝利すると期待しつつも、報告者がいかにしてその方向に導くことができるのかいまだわからずにおります。いずれにせよ、誠実な友人として、利害を超越した公平な立場でヨーロッパの平和の強化のため最善の努力を尽くしたいと存じます。もし私の最高の努力が失敗に帰することなくパリに戻ることができますれば、たいへんうれしく思います」と心境を吐露しています(紅ファイル3-350, BERTHELOT氏, 外務省, パリ, 1929年2月28日)。いずれも間近に控えたジュネーブでの連盟理事会関連の発言です。
この3月の連盟理事会で安達は、ドイツ・ポーランド間の少数民族問題の解決によりいっそう尽力するよう要請されます。安達は、さっそくパリでドイツ・ポーランドの直接交渉の段取りを整え、そこで合意された両国の協定は、6月のマドリード理事会で各国代表の承認を得ることとなります。直接交渉の成功を国際連盟のドラモンド事務総長が賞賛してくれたことを安達は共に仕事した連盟事務局少数民族部のアズカラテ氏に伝えています(紅ファイル4-82, AZCARTE氏, 国際連盟, ジュネーブ, 1929年4月16日)。また少数民族問題を処理する連盟の制度面での改革をめぐっては、チェンバレン英外相らと協力して「ロンドン報告書」を作成しました。ロンドンからパリに戻り、安達はチェンバレンにその労をねぎらう書簡を送ります(紅ファイル4-173, Austen CHAMBERLAIN卿, ロンドン, 1929年5月10日)。
貴兄の見事な指揮のもと、今回のロンドン会議において素晴らしい仕事を成し遂げることができたことを大変うれしく存じます。貴兄の政治に関する深みのあるセンス、見識の明敏さ、そしてご判断の鋭さが私たちをこのような結果に導いたのです。私たちの報告書が国際連盟理事会のメンバーから全会一致の承認を得られますことを確信しております。とはいえ、最終的な結果に到達するまでに、いくつかの障害が残されているでしょう。私は、報告書のなかにある諸提案に関するテキストが送られてくることを待ちかねているところです。この重要な書類を腰を据えて検討することによって、私たちの確信はより強固なものとなることを強く期待する次第です。この重要な問題にたいする貴兄のご発言と熱心な働きかけのおかげで、理事会がマドリードにおいてこの厄介の問題を解決することができるのだとすれば、誇張なしに国際連盟はヨーロッパのみならず世界に貢献したと述べることできるでしょう。日本においてさえも、ヨーロッパの少数民族問題は第一次世界大戦後のヨーロッパ政治体制の中枢神経を蝕むいわば癌のようなものとして知られ見なされております。この恐ろしい悪の被害からヨーロッパを救った偉大なる医師のような存在として今後貴兄がみなされることを心から願っておりますし、実際にそうなることと確信しております。
この「ロンドン報告書」に盛り込まれた制度改革決議案は、マドリードの理事会で、予備会談での白熱した議論ののち、一部修正のうえ、全会一致で採択されます。安達は、理事会終了後パリに戻り、連盟理事会を招聘・歓待してくれたスペインの関係者に礼状を送るとともに、友人宛に次のように綴っています(紅ファイル4-317, BOCKLANOT氏, ヘント, 1929年6月20日)。
マドリードでは、二週間、このうえなく大きな困難に悪戦苦闘しましたが、幸いにもある種の奇跡によって解決を見いだしました。私の同僚は、全員、ほぼ望みを失い、ある者たちは、論争中の問題を延期して散会することを望み、また別の者たちは、国際連盟理事会に内在する深刻な不一致を公に示そうとしました。和解するように説得し、合意点を模索したあと、私は、平和と友情の雰囲気に満ちあふれた最後の会合を閉会することができて非常に幸せでした。ごく一部の理性と公平を欠いた人びとを除いて、全員がマドリードの理事会が見いだした解決策に満足していると存じます。
投稿日:2020年2月17日
皆さん、こんにちは、はじめまして。新潟県立大学の黒田と申します。東北大の深井先生が先のコラムで述べておられましたように、私も、この度、山形大名誉教授の北川先生、深井先生とご一緒して、駐仏大使時代の安達峰一郎のフランス語書簡2617通を読み、その中から重要なものを選択・翻訳する作業に取り組みました。戦間期フランスの国際関係思想に関心を抱く私にとっては、とても知的刺激に満ちた大変に貴重なひとときでした。そこで今回は、私が下訳を担当した1929年1月から6月までの書簡の中から安達ファンの皆様にとっても関心を持っていただけそうな手紙を何通かご紹介できたらと思います。しばしおつきあいいただけましたら幸いです。
最初は、1929年6月、安達が議長を務めた国際連盟マドリード理事会終了後、パリに戻った安達がしたためた礼状のなかの一通で、宛先はスペインの貴族、ミランダ公爵です(紅ファイル4-315:MIRANDA公爵, Palais Royal, マドリード, 1929年6月20日)。
拝啓
パリに戻ってまいりまして、私の最初の思いはマドリードに向けられております。まるまる2週間のあいだ、私たちは、いつも国王と国民の皆様からありとあらゆる種類の歓待の対象となりました。陛下と王妃、それに高貴なる王家の主要な方々が行った盛大なパーティーには、心から感動させられました。私どもは、陛下がいまだ喪に服されていたことを知っておりましたし、セビリアとバルセロナにおける素晴らしいふたつの展覧会の折にご公務をなさってから間もないことを存じあげておりました。このような状況のさなかに、陛下は、私が重要な会議を指揮した国際連盟理事会のために大晩餐会と輝かしいレセプションを催すことをお許しになりました。
国王陛下の政府が、私どもの仕事を容易にし、私たちの滞在を快適なものとするために行った時間的、物質的配慮につきましては、ここでは申しあげません。国民と市井の人びとの振る舞いについても長々と述べたてませんが、自発的なすべての行為は、すべての理事会メンバーとそれに随行した数多くの協力者の心を深く感動させました。
私にとってもっとも幸せだったのは、餞別の思いをこめてこの大好きなスペインの首都を離れなければならなかったとき、国王陛下が自らの指揮でフランスとの国境までご自分の専用客車を私に利用させてくださったことです。私は、貴国の国王陛下のこの素敵な申し出を受け入れることしかできませんでした。国王のお望みは勅命にほかならないのですから。この格別なご厚情のしるしに、私は、心の奥底まで感動いたしました。というのも、私は、26世紀にわたって絶え間なく熱意をもって君主を崇拝してきた国家に属する者だからです。
閣下は、私たちの心がどれほどまでに感動したのかをご存じです。すべてのことが敬意をもって感謝しております私たちの気持ちのなかに深く刻まれ、残り続けますので、どうかご安心くださいませ。ここに非力な私どもの感謝のお言葉をみいだされ、もしも良き機会がございましたら、玉座にまします国王陛下にご献上くださいますれば、無上の喜びに存じます。 敬具
マドリードでの連盟理事会が無事に終わったことへの安堵感と会議を手厚く支援してくれたスペイン王家への敬意に満ちた書簡です。北川先生、深井先生との下訳の確認作業の折、フランス文学がご専門の深井先生がこの手紙に表れている安達のフランス語の格調の高さを指摘され、強調されていたことが心に残っています。例えば上記書簡の結びを原文でみると、こんな感じです。
Vous savez jusqu’à quel point notre cœur fut ému, tout cela soyez assuré restera toujours très profondément gravé dans notre mémoire respectueusement reconnaissante. Veuillez trouver ici les bien faibles expressions de notre reconnaissance et je vous serais infiniment gré de vouloir bien, lorsque l’occasion vous paraîtra bonne, les faire monter jusqu’au Trône occupé si noblement par votre Auguste Souverain.
安達のフランス語については、深井先生が改めてコラムで論じられるとのことなので、
それを楽しみに待ちたいと思います。安達は、時のスペイン首相、エステラ侯爵への礼状の一節でもスペインへの思いを以下のように綴っています(紅ファイル4-312:de ESTELLA侯爵, マドリード, 1929年6月20日)。
寛大にも国王陛下が鉄道の利用を私たちのために手配してくださいましたが、その列車に乗って出発する際、閣下が個人的に来てくださったことは非常に驚きでした。というのも、私の同僚のシュトレーゼマン独外相がほぼ同時刻に別の駅から出発しなければならず、閣下は両方の出発に立ち会いたいとお望みだったにもかかわらず、私どものほうに来てくださったからです。閣下が妻に贈ってくださった麗しきスペインの花束は国境まで私たちの手元にありましたが、列車の積み替えの際の混乱で、王家の専用列車のなかに置き忘れられ、ビアリッツに到着して、この花束を取り戻すために、急いで電報をイルン宛てに送りました。その結果、マドリードでいただいた時と同じくらい美しい状態でほどなくして戻ってまいりました。花束とともにパリに戻ってまいりまして、今は、居間に彩りを添えております。それは、閣下が国際連盟理事会の議長の妻を称える大いなる友情の輝かしき証ではないでしょうか。
このように深い満足を覚えたマドリードでの連盟理事会で安達はいったいなにを成し遂げたのでしょうか。そしてそのためにどのような準備を行ったのでしょうか。次回は、そのことを少し詳しく書きたいと思います。
投稿日:2019年12月5日
昭和4年(1929年)6月にはパリのジュー・ド・ポム国立ギャラリーにおいて「巴里日本美術博覧会」が開催されました。日本の文部省、外務省、大使館が中心となって実行にあたり、安達は大使としてその中心的役割を担いました。この目的の1つは、浮世絵などの江戸絵画に関心を寄せてきたヨーロッパの顧客層に対し近代日本画を紹介し、美術市場の活性化を図るものでした。
1929年山本海軍大将に宛てた手紙では(紅ファイル5-8)、「4週間弱で既に60点以上の大きな絵が売却され入場者数は既に30,000人を超えています。それは今までの展覧会でも最大の成功です」と述べ、また別の手紙では「両国の人々が知的に接近したことを深く喜んでいる」と語っています。
この展覧会に関する少し面白いエピソードをご紹介しておきましょう。 1929年5月31日に展覧会を準備していたD’Oelsnitzという人物に宛てた、フランス語で書かれた気送速達便です(紅ファイル4-303)。
前略
私は、日本展の準備を視察した際、たいへん満足したことを再度申し述べたいと存じます。立ち去る際に、私は二つのことに気付きました。一見取るに足らないことのように思われますが、場合によっては後に重大な結果を引き起こす可能性のあるものです。
1)日本国旗の日の丸が、我が国の政府が60年前に定めた規則に反して小さすぎます。もっと大きくなくてはなりません。もっとも、それは国旗の大きさに見合った正確な寸法を大使館事務局に問いあわせれば済むことです。
2)ポスターについては、浮世絵の複製に目をとめたのですが、これにはぞっとするような醜い当時の遊女が描かれておりました。東京の印刷会社は、お品書きの用紙として使用するこの手の複製をしばしば送ってきますが、私は全て屑籠に投げ捨てました。ポスターを完全に差し替えることは、とても望ましいというばかりか、不可欠でさえあります。私見では、もっとも良い手段は、藤田画伯に、たとえば金太郎や桃太郎といった伝説的なヒーローを描いた特別なデッサンの作成を依頼することです。金太郎や桃太郎は、純日本的な人物であり、エネルギーと知性を鼓舞するわが民族の精気の化身ともいえる人物なのです。 取り急ぎ
気送速達便というのは、気送管という管に空気圧を送って送る速達の手紙で、初期は電報などを送る際に利用され、フランスでは1875年より実用化されました。この時、安達は開催の6月間近に迫った展覧会に間に合うよう、準備をしているD’Oelsnitzに急いで送っています。
安達は、普段穏やかで、老若男女分け隔てなく非常に丁寧な手紙を書く人ですが、この時は美術展の準備を見て気に入らない点があり、丁寧ではありながらはっきりと変更の希望を表明しています。
その第1点は「日の丸」の大きさです。天皇家の祖である天照大神は、文字通り太陽と深く関わり、聖徳太子が「日出処の天子」と言う表現を用いたように、日の出と天皇のイメージは深く結びついています。更に、日本という国名も「日の本」と書くように、太陽と深い関係を持っています。安達は、その日の丸が、明治政府が定めたものに比べて「小さすぎる」ことに対し「重大な結果を引き起こす可能性がある」と述べています。まるで、天皇や大日本帝国を冒涜していると捉えられかねないと注意を促しているかのようです。
第2に、展覧会のポスターに使われた「ぞっとするような醜い遊女」の浮世絵を批判しています。それは「印刷会社」がパーティーなどの「お品書き」に用いるように送ってきた浮世絵に似ており、全て屑籠に捨ててしまったと言っています。普段丁寧に、婉曲的な表現を使い手紙を書く安達が、「醜い」という直接的な形容詞を用い、「全て屑籠に捨てた」などと述べることは稀です。これは現代においてもよくあることですが、日本の伝統文化が間違った形で伝わってしまうことを懸念しているのでしょう。ヨーロッパでは既に浮世絵が賞賛されもてはやされていました。安達は、それ自体は良いにしても、日本人が美しいと認めないような下卑たものが堂々と掲示され、あたかも本物の日本の美術作品だと誤解されることには納得がいかなかったのでしょう。
「金太郎や桃太郎は、純日本的な人物であり、エネルギーと知性を鼓舞するわが民族の精気の化身ともいえる人物なのです」などと書かれると、現代を生きる私達はそんなに凄い人だったのかと思わず笑ってしまいそうになりますが、当時は少し事情が違うようです。桃太郎が日の丸の鉢巻きをするようになったのは明治時代からで、天皇中心の国家体制が樹立されたことで、桃太郎は周辺国を従えた勇ましい大日本帝国の象徴として利用されました。事実、太平洋戦争の終焉まで桃太郎は多くの国語の教科書や唱歌、図画の教材などにされます。意識的か無意識的かは別として、安達が日本絵画展にこのような修正を依頼する時、当時の日本人としての価値観と、ヨーロッパにおける日本のイメージを高めたいという願望が見え隠れしているように思われます。
最後に、ポスターの代わりの絵を藤田嗣治に描いてもらうように指示していますが、このあたりも、安達峰一郎のナイスアシストと言えるのではないでしょうか?このように、安達峰一郎は現代ほど数多くの日本人が住んでいない遠い花の都パリで、若く野心的な芸術家たちを庇護することで、日本の文化をヨーロッパに広めることに尽力したのです。
投稿日:2019年12月2日
皆さんこんにちは。東北大学高度教養教育・学生支援機構准教授の深井陽介と申します。この度、山形大学名誉教授の北川忠明先生、新潟県立大学教授の黒田俊郎先生と共に、駐仏大使時代の安達峰一郎のフランス語の書簡、「紅ファイル」の2617通を読み、その中から重要なものをピックアップして翻訳させていただきました。私の専門はフランス文学・フランス語教育学で、主に文化的側面から安達峰一郎が残した功績について、調査・研究しています。
外交官としての安達峰一郎、国際連盟で功績を残した安達峰一郎の陰で、日本文化普及に尽力した彼の姿があります。1858年の日仏修好通商条約の締結後、フランスではジャポニズムが流行し、浮世絵などがフランスで知られ、人気を博する一方で、ピエール・ロチの『お菊さん』などが発表され、日本や日本人のイメージはまだまだ魅惑のヴェールに包まれていました。その後、大日本帝国は日清戦争、日露戦争に勝利し、台湾や韓国を併合する中で国際的な知名度を上げていきましたが、当時のヨーロッパではまだアジアの小国に過ぎなかったのかもしれません。駐仏大使に就任した1928年、安達は日本文化の普及と日本のイメージの向上の為に、様々な文化的事業に取り組み始めました。
文化や歴史、伝統を重んじるヨーロッパの風土の中で、日本の威信を高め「一等国」の仲間入りを果たす為に安達峰一郎が考えたのは、まず日本の文化が持つ価値を高めることでした。文化を世界に知らしめ、その価値を認めさせることが、政治や外交、軍事力のみではなし得ない、本当の意味での日本の地位の向上に繋がると考えていたようです。事実、元駐日フランス大使で、有名な作家でもあるポール・クローデルともやりとりがあり(「紅ファイル」2-174など)、ヨーロッパに日本文化を紹介した功績を褒めたたえています。
既に安達は、ベルギー大使時代に日本文化の普及・発展に貢献していました。第一次世界大戦中戦場と化し、未曽有の惨劇に見舞われたベルギーで、ルーヴァン大学の図書館が破壊されてしまいました。その折、多くの日本の図書を寄贈し、後に「バロン薩摩」と呼ばれた薩摩治郎八と共に日本文化講座である「薩摩講座」を開講しました。それが現在にも受け継がれている日本学の礎になっています。安達は外交を通して政治的に国と国が繋がるだけでなく、精神的な絆を作ることが大切だと言っています。
駐仏大使になってから、安達が関わった最大のプロジェクトの1つにパリ国際大学都市日本館の建設が挙げられるでしょう。フランス政府が各国に提唱し、留学生の宿泊研修施設を建てるよう要請しましたが、日本の外務省は資金不足で断念せざるを得ませんでした。その時、富豪であった前述の薩摩治郎八が巨万の富を投じて全額出資し、1929年5月に「日本館」が完成しました。当時治郎八は20代後半の若者、安達は60歳に近いのですが、何度も手紙を送り、その度に礼を述べ、親交を深めています。
安達は駐仏大使に着任してからも、ベルギー時代のように芸術家たちと交流し、彼らに支援することを惜しみませんでした。例えば、1910年代後半に知名度が高まり、1920年ごろから野心的作品を次々と発表していった藤田嗣治の絵は、自ら直接購入し、絵を買ってくれそうな貴族・富豪を紹介しました(紅ファイル4-288)。現在のパリ国際大学都市日本館にも藤田の絵が飾られており、それを見に訪れる人たちがいます。駐仏大使時代の書簡を読んでみると、長谷川春子、川村清雄などの日本人画家とも交流していたことが分かります。また、日本の現代芸術に注目するヨーロッパの貴族やジャーナリストに感謝の手紙も送っています。
様々な芸術分野の中で、安達自身が深い関心を抱いていたのが絵画です。安達夫人によれば、夫妻は平生対話が少なかったようですが、画廊に入った時は言葉を交わし合ったそうです。実際、夫妻はしばしば好みの美術品を探し求め、購入していました。
投稿日:2019年10月30日
最後の三番目は、不戦条約を巡る石井と安達の対応に関わります。
不戦条約は、フランスのブリアンが米仏二国間の安全保障条約を米国に提案したことに端を発しますが、最終的にはアメリカの側から多国間の条約として提案され、1928年8月27日にパリで調印されます。
日本も内田康哉全権が署名し、批准手続きに入りますが、外務省を退職して枢密顧問官になっていた石井は、不戦条約反対ではないものの、批准に消極的な対応をします。
第一に、条約第一条で国家の政策の手段としての戦争を放棄することを「其ノ人民ノ名ニ於テ」厳粛に宣言すとなっているが、これは天皇主権の大日本帝国憲法に違反するというのです。
第二は、第二条では仲裁・裁判手続きも違反者に対する制裁規定も欠如していて、実効性が疑わしいというものでした。
石井が消極的に対応したことには理由があります。アメリカ提案の不戦条約案は、アメリカにおける反国際連盟派のボラー(W.E.Borah)共和党上院議員が主導したもので、第一に、「人民ノ名ニ於テ」というのはアメリカ式の人民主権原理を基礎にし、宣戦や講和を人民に委ねるものではないか、第二に、アメリカ主導で作られた仲裁・裁判手続きも違反者に対する制裁規定もない条約は、国際連盟を弱めることにならないか、というものです(石井菊次郎『外交余禄』)。
第一点はポピュリズムへの警戒とも取れますが、要するに石井は、ウィルソンによる米国の国際連盟加盟提案を葬ったボラーが関与しているのであれば、下心があるに違いないと勘ぐったのです。
これに対して、安達は、「人民の名において」については、「委任代理代表の意味はない、主権人民に在りの意味もない」という仏側意見を伝達(昭和4年(1929年)3月19日 田中義一外相宛電信)して、調印を推進しているところがあります。
また、仲裁・裁判手続きや違反者に対する制裁規定が欠如していても、「空文にとどまるものではない」、「活動性を持ってい」て、調印・批准された以上、どの国もこれを無視することはできず、抑制的行動を取るようになっていると述べています(安達峰一郎「国際連盟の発達は健全なりや」1930年)。
さらに、安達は1929年4月に国際法学者で元国務長官のE.ルート(米)が常設国際司法裁判所(PCIJ)規程改正委員会でアメリカの同裁判所に公式参加を表明(安達峰一郎「国際連盟の現状と常設国際裁判所判事の来秋総選挙」、1930年)しているし、1929年9月の国際連盟総会では英仏をはじめ応訴義務承諾国の拡大を見ているから、不戦条約を契機にして普遍的な紛争処理システムとしてのPCIJと国際連盟が発展することは可能だと見ているようです。
安達は、以上のような状況を踏まえて、PCIJ裁判官への立候補を決意するのです。
石井は、米国の上院をボラーが仕切っている以上米国のPCIJ参加は難しいと見ていたし、確かに上院は否定しましたが、普遍的な紛争処理システムの形成という安達が目指した地点の意義は失われないでしょう。
さて、5回にわたって、石井菊次郎との関係で安達の外交思想と行動を見てきました。最強コンビではありますが、国際民主主義への対応、ドイツ少数民族問題や多国間協調をめぐるアプローチ、不戦条約への対応等において、安達は石井が不十分であったところや積み残したところを補正して、国際連盟外交を軸にした国際協調外交の到達点を画したと言うと言い過ぎでしょうか。
ところで、1930年代に入ると、日本は満州事変によって石井と安達が積み上げたこの貴重な国際協調外交の到達点を解体させました。安達(そして石井)が築き上げた国際協調外交が再開するのは、十数年を経て、第二次世界大戦後、国際連盟の失敗を踏まえて国際連合が構成され、また日本国憲法が制定されることによってでした。条件は一変しましたが、それにしても、戦後74年、われわれは安達が目指した地点にどこまで近づいたのでしょう?
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