山形大学人文社会科学部附属研究所

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資料室ブログ

このブログは、高校生・大学生、一般の方に、外交官・常設国際司法裁判所裁判官として活躍した安達峰一郎の「国際法にもとづく平和と正義」の精神を広く知って頂くために設けました。安達峰一郎に関するイベント等の情報、安達峰一郎の人となりや業績等に関わる資料紹介、コラムやエッセイ、今日の国際関係に関わる記事等を随時配信していきます。

1900年パリ万博前後の安達夫妻(その2)―岡村司『西遊日誌』と『安井てつ書簡集』から―

投稿日:2019年4月22日 投稿者:山形大学人文社会科学部教授 高橋 良彰 

1、岡村司と安達峰一郎
 岡村司と安達峰一郎は、司法省法学校正則科四期生以来の同級生であった。司法省法学校は明治17年(1884年)に文部省管轄の東京法学校へと改編され、さらに、彼らは、その廃止にともない東京大学予備門・第一高等中学校に移り、帝国大学へと進学して行くが、その結束は固かったようである。(『書簡集』に明治23年1月1日付の随筆が掲載されており、その62頁以下に「今年ニ於て尤も深く心を留むべき条件」として7番目に「赤沼、浅見、入江、岡村、鈴木、松本、佐藤啓等に兄事すべき事」とある。この岡村がおそらく岡村司であろう)
 岡村の日誌を見ていると、パリ万博の前年1899年から1900年にかけて、多くの同級生、司法省法学校出身者、帝国大学卒業者が出てくる。司法省法学校がフランス語で教育を行う機関であったことから当然といえば当然であるが、ドイツへ留学する者も、この時期パリを訪れる機会を持とうとしたようである。パリ万博の開催が大きな吸引力を持ったということなのであろう。
 岡村にとって、司法省法学校以来の同級生は、特別な存在であった。それは、公的な関係に留まらず、私的な関係においてもそうであった。何よりも彼の妻は、安達たち同級生の一人である、入江良之の妹・郁子であった。日誌でも、入江からの手紙が煩雑に届いていたことがうかがえる。入江良之は、岡村・安達と同年の明治25年(1892年)東京帝国大学法科大学卒業で、席次は、岡村よりも上の第二部(仏法)4位であった。ちなみに、安達は若槻礼次郎に次いで2位、岡村は7位。この他、先に触れた織田萬も同窓生であり席次は5位となっている。安達や若槻と首席を争った荒井賢太郎が3位であったから、1位・3位は大蔵省に入り、2位の安達は外務省、4位以下の何人かは学者の道に進んだということになる。岡村の順位は低いが、京都帝国大学の教授に推されたのは、その著書『法学通論』の成功が大きかったと言われている。学者としての資質がかわれたのだろう。順位が上の入江もまた、岡村の推薦もあってか(2月8日の日誌に「織田万氏に寄する書中に良之兄をば京都大学に推薦すべしと言ひやりにき」とある)、しばらくのちのことにはなるが京都帝国大学で教鞭をとることになる。
 岡村の妻が同級生の入江の妹であったことは、当然安達も知っていたであろうし、安達の妻である鏡子夫人も知っていたと思われる。
 1899年(明治32年)12月22日の日誌に、次のような記述が見える。
「二十二日 陰、午下、安達氏に至り、細君に面し歳暮として菓子折一箱を贈りぬ。代金八フランなりけり。縦八寸、横五寸位の箱に西洋菓子を詰めたるなり。安達氏の妻君[鏡子夫人]も中々に話しが上手なり。曰く、御国にては何の御変りもなく候哉、巴里は東京よりも気候風土宜しければ何の心配することもなき筈なれども、御内にてはさぞかし御心配遊ばしつらん、私も近き内、奥様にまであなたの御丈夫なることを御しらせ申すべしなど云へり。次で公使館に至りて峯一郎氏に面会しぬ。」
(ちなみに、偶然にもその翌日の23日には、ロンドンの「安井て津子」より手紙が届いている。安井とかね夫人との関係については詳しく後に触れることとしたい。)
 パリに子供が同居する安達夫妻へのお歳暮として、西洋菓子の箱詰めを送るという岡村の心尽くしにも感心するが、安達夫人からの申し出に、「話しが上手」と自身の妻に書き送っているのが何とも微笑ましい場面である。
 岡村は、自身の妻・子供を日本に残しての留学であった。かね夫人が、岡村の妻に、「岡村さんはこちらで元気にお過ごしですよ」とお伝えしたい、というのも、峰一郎と岡村夫妻との関係を知ってのことであったのだろう。

6月に安達峰一郎生誕150周年記念シンポジウムが開催されます!

投稿日:2019年3月29日 投稿者:山形大学人文社会科学部准教授 丸山 政己

 2019年は安達峰一郎の生誕150周年にあたります。6月15日(土)には、安達峰一郎記念財団の主催で「よみがえる安達峰一郎―世界が称賛した国際人に学ぶ―」と題した記念シンポジウムが東京(スクワール麹町)で開催されます。本学からは、北川忠明教授が報告者として登壇し、丸山もパネル討論に参加します。安達峰一郎の実像と安達峰一郎研究の現代的意義について、様々な角度から迫る刺激的なシンポジウムになるかと思います。ご関心のある方はぜひご参加ください。  

 詳細は次のリンク先をご参照ください。 http://m-adachi.or.jp/news_20190301_01.pdf

1900年パリ万博前後の安達夫妻(その1)―岡村司『西遊日誌』から―

投稿日:2019年2月21日 投稿者:山形大学人文社会科学部教授 高橋 良彰 

6、パリ万国博覧会開催前夜
 2月17日に開かれた日本人会は、博覧会が近づいたこともあり「会する者三十五六名、万国大博覧会事務所、出品協会などの面々多く、新顔の人多かりき」と言う。
 この日の記述で興味深いのは、「此にて内山大佐より、閑院宮殿下が三月二十六七日頃来巴せらるべき旨を聞き、又、皇太子嘉仁親王殿下が二月十一日に九条節子姫と結納の式を挙げられたる旨を聞」いたことである(東宮殿下御慶事として2月11日の紀元節の日に婚姻について発表された)。
「殿下は皇族の資格にてはなく、秘密旅行をせらるゝなりとぞ。或いは云う、皇太子殿下、大博覧会に御来臨につき其の下見分の為めなりと。果たして然るや否やを知らず。然れども皇太子殿下の御洋行せられんことは、在外臣民の均しく希望し奉る所なり」
 結局、この日の話は噂話に過ぎず、皇太子殿下(後の大正天皇)の洋行は実現しなかったが、このような噂が流れるほどパリ万博がもてはやされ、その開催を契機に日本人が大挙してパリにおもむいたということなのであろう。また、鏡子夫人が東宮職御用掛を務めたことはよく知られているところであるが、この話を聞く機会はあったのだろうか。聞いたとすれば感慨深いものがあったに違いない。ちなみに、皇太子殿下の結婚については、その当日(5月10日)パリにおいてもお祝いの会合が開かれ、この日、安井てつと新渡戸稲造とがはじめて出会うことになる、といった後日談は(その2)にて別に語ることとしたい。
 少々岡村のパリ生活を長く紹介しすぎたようである。岡村の日誌はこの後も続く。たとえば、元判事の林謙三が訪ねてきたり(3月30日)、同僚となる春木一郎(ローマ法)がベルリンからやってきたり(4月20日)、東京美術学校教授の浅井忠など様々な人たちとの交流が記載されている。しかし、その交流も固定化してくる。4月になると、環境を変えようとしたのだろうか、建部遯吾と同じ家に住むこととし、郊外のサンクルーに引っ越したりするが、結局、9月にはドイツのイエナに向かうことになる。パリでの生活は楽しかったようであるが、このままでは留学で何一つ得るものもなく終わるのではと言う思いに襲われたようである(1月21日)。もっとも7月中旬にはドイツに移るつもりだったが、パリ万博に合わせて開催された国際学会が目白押しで、「八月下旬まで仏国に逗留することとはなりぬ」(6月5日)と言う。その一つ「土地所有権万国会議」のパンフレットにはただ一人東洋から参加した岡村の名が見える(Congrès international de la propriété foncière , Paris , 11,12 Juin 1900 , p35. 同書は、パリ国立図書館のGallicaで検索できる)。パリ万博に合わせ各種学術会議が開かれたことは、それ自体興味深いことである。
 ともあれ、いよいよ4月、パリ万博が始まる。その様子については、その2として見ていくこととしたい。

1900年パリ万博前後の安達夫妻(その1)―岡村司『西遊日誌』から―

投稿日:2019年2月21日 投稿者:山形大学人文社会科学部教授 高橋 良彰 

5、1900年のはじまり
 年が改まった1月1日には公使館での年始会があった。「会する者三四十人計り」とされ、当然そこには安達夫妻もいたと考えられる。6日の日記に「ロンドンなる安井て津子に寄する書を作りぬ」とあることについては、後で触れよう。
 岡村は、文部省派遣の留学生であった。この時期、文部省の官吏もパリにきている。1月7日、日記には「近日、日本より到着せる文部省官吏 正木直彦、渡辺董之助」との記載がある。  正木直彦は、明治から昭和初期の美術行政家。文部官僚出身で、東京美術学校(現東京藝術大学)の第五代校長を帰国後の1901年から1932年までの長期にわたって務めたという。安達とともに東京帝国大学法科大学法律科を卒業し(明治25年(1892年)7月12日官報第2711号131頁)、この当時、第一高等学校教授を兼任していた。明治32年(1899年)から美術などに関する調査のため欧米に出張していたところであり、夏目漱石と大学予備門・第一高等中学校に学んだという(山本順二『漱石のパリ日記』30頁以下)。
 渡辺董之助は、明治22年(1889年)帝国大学文科大学を卒業した(明治22年(1889年)7月11日官報第1809号124頁)。文科大学ではあるが同じく帝大出身の文部官僚である。1900年9月にパリを訪れた夏目漱石を案内したのはこの人物である(山本前掲書40頁以下)。
 安達との関係で気になる記載としては、1月11日のものがある。それによると、数日前、安達氏は「馬車のナガエに衝き当りて胸を打ちたれども、幸いに怪我もなく別条なしと云へり」という。打ち所が悪ければ大けがになったであろうが、幸いにして、というところである。このような話題が出てくるのも、日々の記述が残る日記ならではのことである。
 13日の日記に出てくる「堀口九万一氏ブラジルに赴任する」とある堀口氏は、安達と同じ外交官。勝本と同じ明治26年(1893年)に東京帝国大学法科大学を卒業している。詩人堀口大學の父親である。また、14日の日記には、その後同じ家に住むことになる、建部遯吾が来訪している。
 1月末には、穂積陳重がパリに来ていることが興味深い。23日、穂積は、ブリュッセルにいた高橋作衛(国際法学者で後に東京帝国大学で国際法の教授となる)に伴われ、渋沢喜作(穂積陳重の妻歌子の父である渋沢栄一の従兄弟)とともにパリを訪問し、2月6日まで滞在している。穂積の洋行は、初めての留学以来20年ぶりのことであり、ローマで開催された国際学会(第12回万国東洋学会)への参加が主目的であったが、「其序ヲ以テ欧米各国学術ノ実況ヲ視察セシメ」るため、ロンドン・ベルリンをはじめ、各地を訪ねていたところであった(註)。安達をはじめ岡村にとっても帝国大学法科大学において教えを受けた先生であり、2月1日には「巴里[パリ]学士会」が開かれている。いわば教授を迎えての同窓会であるが、そこに参加したのは「穂積陳重、清水市太郎、谷本富、渡辺董之介、正木直彦、岡田朝太郎、勝本勘三郎、建部遯吾、田付七郎、中村某(工学部)、渋沢喜作及び余の12人」であった。残念ながら安達の名は出てこない。「安達峰一郎氏は風邪の故を以て来会せざりき」と言う。「此の日微雪ありき」という寒い日だったこともあったのだろう。

註 穂積の妻歌子による日記『穂積歌子日記』が孫の穂積重行の解説付で公刊されており、穂積陳重の学会派遣などについてはこれを参照した(同書462頁、473頁、518頁以下)。ちなみに、前掲『箕作元八・滞欧「箙梅日記」』には、ベルリンでの穂積の様子が出てくる。

 また、2月8日の日記によると、安達は、その翌日9日から「栗野公使と同じく西班牙(スペイン)葡萄牙(ポルトガル)二国に赴き、三月中旬帰巴すべしと通知し来りければ[中略、安達に合いに]公使館に至りしに[中略]公使及安達氏は既に昨夜出発したりと」という。行き違いとなったわけである。安達がパリに帰るのは、3月10日頃であり(同月一二日の記述より)、パリに戻るとすぐに安達の方から岡村を訪ねている(16日)。

1900年パリ万博前後の安達夫妻(その1)―岡村司『西遊日誌』から―

投稿日:2018年12月21日 投稿者:山形大学人文社会科学部教授 高橋 良彰 

4、同郷の人・社交界
 年末に向けパリを離れる人が多くなってきたが、日誌12月9日の記述が面白い。それは、「安達氏より」「斎藤十一郎氏来巴[パリ]に付き十五日に晩餐を饗したきに付き来らずやの書ありき。斎藤十一郎氏と云ふは、控訴院の判事にして、小宮三保松、棚原一郎二氏と(同欠カ)しく、独逸[ドイツ]、澳太利[オーストリア]に司法制度取調の為め巡回に来たりたる人にて、其の帰途巴里[パリ]に立ち寄りたるなりけり」という。
 なぜこの記述が興味深いのか。斎藤十一郎は、明治24年(1891年)に東京帝国大学独法科を卒業した山形(東村山郡横山村・現天童市)出身の判事であり(卒業につき官報第2409号同年7月11日)、したがって安達とは同郷だったことである。対して、小宮三保松は、梅謙次郎と同級の司法省法学校正則二期卒業生であり、古河藩出身で岡村司と同郷・先輩の法曹官僚であった。岡村は「小宮氏は如何にせしや未だ分らず。若し此に来りしならば直ちに行きて見まほしく思ふ。他郷にて故郷の人に遇ふより愉快なるはなし。」と認めている。安達も同じ思いで斎藤と会ったのであろう。つまり、岡村は、安達と斎藤の出会いと自分と小宮の出会いを重ね合わせ、このような感慨を述べたということになる。
 ちなみにここに「棚原一郎」とあるのは、13日の記述で「棚原愛吉」とされ帰国後の報告会の演述筆記で「棚橋愛七」とされている人物のことであろう。この演述筆記に小宮の演説はないが、刑事は棚橋、民事は斎藤、小宮が司法行政の視察をすることとなっていた(司法省総務局編『欧米派遣法官演述筆記』一一四頁。近代デジタルライブラリーより閲覧が可能である)。齋藤については、後でまた触れる予定である。
 この他、この時期に煩雑に出てくる人物としては、まず、博覧会事務局の斎藤氏が挙げられる。斎藤氏とは、おそらく斎藤甲子郎のことで、安達との繋がりで知り合ったのであろう[註]。

註 斎藤については「http://www.wul.waseda.ac.jp/Libraries/fumi/16/16-03.html」を見つけた。写真が引用されており、貴重である。

 また、公使館職員についても名前がよく出てくる。パリに着いた翌日に会っている「清水某」の他、「書記官田付」という名前がある。これは、当時の職員録(国立公文書館所蔵)に外務書記生とある清水潤之助と外交官補として出てくる田付七太のことであろう。また、公使館付武官として「内山大佐」の名前も見えるが、残念ながらどのような人物かは不明である。安達はもとより、公使の栗野慎一郎の他、主要な職員とはよく会っていたということであろう。また、12月15日に日本人会の会合が開かれるが、これは公使館一等書記官の「佐藤氏」(おそらくは佐藤愛麿公使館一等書記官)のドイツへの転任の送別会を兼ねて開催されたもので、「会する者三十人計り、中々盛況なりき」とある。
 公使館員ではないが、公使館で出会った人物として、「重野、岡田、松平子三氏と談話しぬ」が出てくる(13日)。松平子とは、松平頼親のことで、「旧高松の藩主なり」という。重野とは、重野紹一郎。岡田は、画家の岡田三郎助のことであろう。ちなみに、12月25日にローマからパリに着いた岡田朝太郎は別人で、この岡田朝太郎は刑法学者として東京帝国大学教授になる人物である。
 この他、谷本富という名前も出てくる。彼は、帝国大学文科大学選科生となり、哲学全科を修了しヘルバルト教育学を学んだ教育学者であり、後に京都帝国大学教授となり、学部自治が問題となったいわゆる沢柳事件の当事者の一人となっている。したがって、岡村とも因縁浅からぬ仲となった人物といえる。
 18日に出てくる寺島誠一郎は、寺島宗則の子息で、1899年パリ法科大学を、次いでパリ政治学院外交科を1902年に卒業したとされる。24日の日記に出てくるのが高柳国次郎。『大日本実業学会高等商科講義・海運論』を書いた高柳国次郎のことであろうか。商船学校教授であるという。この他、苗字だけではあるが、20日には田中(後に出てくる田中譲のことか)、11月22日の矢部(後に海軍軍医中将となった矢部辰三郎のことか)といった名前や、伊藤陸軍中佐 山口海軍医(29日)(巡洋艦日進の軍医長となった山口猪之吉か)といった名前が挙がる。博覧会関係では、造菊家市川氏 彫刻家村上氏などの記述が見え、31日には、市川氏といった記載もある。
 年末に至り、交際の範囲も広がっていった様子が見て取られる。

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