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KAKINAMI Ryōsuke
コース:人間文化コース
メールアドレス:kakinami@
ホームページ:
オフィスアワー:シラバスを参照してください。
専門領域:現代フランス哲学、表象文化論
大学院担当:
山形大学研究者情報:http://yudb.kj.yamagata-u.ac.jp/html/200000123_ja.html
※メールアドレスの@以降は「human.kj.yamagata-u.ac.jp」になります。
― : 先生の専門領域を教えてください。
柿 並: 「現代フランス哲学」を研究しています。ここには現代・フランス・哲学、という三つの要素が含まれていますので少し説明しましょう。
「哲学」は、私たちが世界の様々な物や出来事を見聞きしたり、考えたりする際に暗黙の裡に前提しているものを全て徹底的に疑う学問だと言えます。英語だとphilosophy、ギリシア語に遡ればsophia(知)を愛すること、という意味です。常識、思い込みに対する知的な反省がこの「愛知」の営みには息づいています。
だとすると哲学は古今東西を問わず通用するもののように聞こえます。ですが世界の様々な場所で、その地域や社会に特有の問題と取り組む哲学には「お国柄」と呼んでもよいものがあります。その中でも私が専門とするのは「フランス」です。「我思う、ゆえに我あり」という言葉を聞いたことがあるかもしれません。私が存在していることをいかにして証明するか、フランスの生んだおそらく最も有名な哲学者デカルトは「一切のことを疑っても、疑っている私自身の存在自体は疑うことができない」という原理を第一歩として自らの哲学体系を確立していきました。
ところで「現代」はいつ始まったのでしょうか。高校で学習する「世界史」では1945年が一つの区切りとされているかと思いますが、哲学においてもこの年号を無視することはできません。ヨーロッパのみならず世界中を巻き込んだ戦争が終わった年ですが、それまでの「人間」の「理性」、合理的思考といったものの信用が決定的に失墜した時と言えます。また戦争は終わったとしても、強制収容所や植民地主義などの負の遺産はまだまだ清算されていません。「現代」の哲学はその経験を抜きにして考えることはできません。人間は正しく理性を使うことができるのか、いや、そもそも「理性」自体が万能の力など持っていたのだろうか? これが現代の哲学の根本的な問いの態度と言っても過言ではないでしょう。
― : 具体的にどのような研究なのでしょうか?
柿 並: オリンピックの試合をTVで観ることはあるでしょうか? なぜ全く知らない赤の他人なのに、「同じ」日本人だからという理由で応援できるのでしょう。あるいは海外に旅行した時、「同じ」日本人だからという理由で親近感を覚えることもあるかもしれません。普段は全く関係がない他人なのに、ある時に「同じ」人間の集団が時に熱狂的に形成されるのは何故か。そしてその集団に所属しようとしない人が何故白い目で見られたりするのか。
ある集団を維持するためにはその集団のアイデンティティ(同一性)をどこかで保証する必要があります。普段は意識されていなくても、他の集団とぶつかる時などにアイデンティティの問題は顕在化します。こうした問題を扱う学問はもちろん哲学に限定されません。近代以降は社会学が、例えば旧来の共同体と近代社会を対比させる形で扱ってきました。しかし近年、時に「共同体論」と呼ばれる分野が哲学においても重要な位置を占めてきました。特定の国家、社会といった集団の分析ではなく、集団一般の同一性(およびその排他性)を原理的に考察することに重きが置かれます。
そこで私が特に注目しているのはジャン=リュック・ナンシーという哲学者です。研究の対象としては稀なケースですが、まだ存命中の思想家です。これだけ多様化した現代社会において人々の間に共同性はありうるのか? 安易に「私たち」「仲間」といった集団に吸収されてしまうことのない「他者」の思想――現代哲学のキーワードであり、フランスでは例えばエマニュエル・レヴィナスという思想家が「他者の倫理」を唱えた――がかくも議論された後に、再度他者との「共同性」を考えることなどできるのだろうか? ナンシーを中心に様々な思想家の著作と格闘しながらそのような問いに取り組んでいます。
それと同時に、強固に存続(あるいは回帰)するナショナリズム等の脅威を前にした時にも、共同性は直面せざるをえない課題です。個別事例に限定されず原理を問う、と同時に、抽象的に見える議論が必ずその時代の問題意識に裏打ちされている。それが哲学の研究だろうと思います。
― : この研究に興味を持ったきっかけは何でしょうか?
柿 並: 高校に入った頃はいわゆる「文系」の学問にはまったく興味がなかったのですが、ある時、現代文の先生が授業中に余談で触れたデカルトのことが印象に残りました。また同じ頃、萩原朔太郎らの詩を入口にしてフランスの象徴主義にも興味を持ち、ボードレールなどを(もちろん翻訳ですが)乱読するようになりました。詩作品だけでなく詩論・批評などを読んでいるうちに少しずつ哲学もかじり出したのですが、3年生の時、選択科目として履修した倫理の先生との出会いはその後の私にとって決定的なものでした。フランス現代思想を代表する思想家、例えばジャック・デリダなどを教えてくれたのもその先生です。
哲学は対象によって規定されません。世界(自然、社会、国家)、主体(魂、精神、人間、この私)、科学技術(人工知能、サイボーグ)等々、芸術作品、ファッション、Rock……、何を研究してもよいのです。もちろん2000年以上に渡る先人たちの思索との対話も研究の柱であり、その意味では哲学は(哲学史研究といった形での)専門的な訓練を必要とします。その上で、研究や叙述の方法・スタイルは十人十色。思考の歴史と対峙しながら自由であること、そのような困難な営みがしかし哲学の魅力だろうと思います。
― : 最後に高校生に一言メッセージをお願いします。
柿 並: 自分の反省を込めて言えば、高校で学ぶ範囲の語学(英語)はマスターしておくこと。「受験英語は役に立たない」などということは決してありません。外国語で書かれた文献を読む基礎訓練ですし、一つの外国語ができるようになると語学修得のコツがつかめますから第二、第三外国語を学ぶ際のハードルが圧倒的に下がります。
大学は、どの時代・地域・分野を出自とするかを問わず、多様な知識と考え方が集まってくる場所です。昨今ではまるで呪文のように「グローバル化」という言葉が発されます。しかしグローバル化する現代社会において自分の位置を相対化しつつ、異文化と出遭うための感受性を維持し続けるためにも外国語の修得は重要な役割を担っています。
「いつまでたっても英語がうまく話せるようにならない」――そんな悩みを持つこともあるでしょう。しかしうまく話せる必要はないのかもしれません。ゆっくりでも正しく丁寧に話そうと努力すれば、耳を傾けてくれる人は少なくありません。私もフランス語を学び始めてから15年以上、会話で困ることは殆どなくなりましたが、まだまだ知らない表現はいくらでもあります。話していてもフランス語が勝手に喋っていると感じることがないわけでもありません。しかしそんないささかの違和感と同居しつづけること、それが異文化と暮らすことの一端なのかもしれません。
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