教員紹介

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今村 真央

IMAMURA Masao

コース:グローバル・スタディーズコース
メールアドレス:imamura@
ホームページ:研究紹介 https://www.youtube.com/watch?v=Vs_9VxFG-C0
オフィスアワー:木曜日13:00-15:00
専門領域:東南アジア史
大学院担当:

※メールアドレスの@以降は「human.kj.yamagata-u.ac.jp」になります。

インタビュー

 ― : 先生の専門領域を教えてください
今 村: 専門の地域は東南アジアです。特に、東南アジアの少数民族について調べています。東南アジアには、数え切れないほどの少数民族がいます。これらの多くは山地民——つまり山の中に住んでいる人々——です。山地民の人々が暮らしてきた地域というのは往々にして国家の辺境に位置しています。したがって私の研究対象は「東南アジアの辺境」です。
 実のところ、東南アジア自体が辺境的な存在です。東南アジアは、中国やヨーロッパのように外部に大きな影響を与えた地域ではありません。というわけで、「東南アジアの少数民族、なんでそんなマイナーなことを専門にしているんだ」という視線を感じることがあります(笑)。
 しかし、周縁から見ることによって、ものごとの本質がよくわかるということがあります。少数民族の視点から見ることに国民国家の本質がより明らかになるとか、辺境から見ることによって文明論や世界史がどのような論理によって組み立てられているかよりはっきりとするといったことがあります。辺境の研究とは、つまるところ辺境と中央との関係の研究です。
 ― : 具体的にどのような研究なのでしょうか?
今 村: 具体的には、ミャンマー北部の「カチン」と呼ばれる少数民族の歴史的研究を進めています。カチンの人々はそのほとんどがミャンマー北部に住んでいますが、隣接している中国雲南省やインド北東部にもいます。つまり国境をまたがる地域に暮らしている民族なのですが、ミャンマー、中国、インドという三つの近代国家に分断されてしまった民族、といった方が正しいかもしれません。
 長いあいだ狩猟採集生活を営んできたカチンの人々は、およそ百年前まで文字を使うこともありませんでした。「カチン史」の文献や資料は極めて限られています。現在でも、彼らには大学も図書館もありません。それではカチンの人々は自らの歴史をどう語っているのでしょうか。そもそもカチンの人々にとって歴史とはどのような意味を持っているのでしょうか。国家を持たない人々は歴史をどのように語り、どのように使うのでしょう。これらの問いを通して、歴史の書き方や語り方を考え直す研究を進めています。
 ― : この研究に興味を持ったきっかけはなんですか?
今 村: 私はアメリカ東部の大学を卒業したのですが、ニューメキシコ州のサンタ・フェというところで大学付属図書館の司書としてしばらく働いていました。ニューメキシコ州は、アメリカ先住民(いわゆるインディアン)の割合も、またスペイン語話者の割合も全米で最も高い州です。ニューメキシコは、アメリカ合衆国の中で極めて周縁的な存在なのです。そんなところで暮らしていると、教科書に書かれているような「アメリカ合衆国の歴史」では説明できないことがたくさんあることにいやがうえにも気がつくようになりました。「辺境の視点」に気がついたのはその頃です。
 2001年9月の同時多発テロ事件の後に、アメリカ合衆国からタイ北部のチェンマイというところに移りました。そこで人権団体に勤めることになったのですが、多くのミャンマー出身の移民、難民、亡命者に会い、生い立ちを聞くことができました。特に、自分たちの国を持たない少数民族の人々の話にはとても驚かされました。
 私はそれまで「国家に属すること」を当然のことを思っていたので、「自分たちの国家がない」というのがどういう境遇なのかしっかりと考えたことはなかったわけです。多くの移民、亡命活動家、難民の話を聞くことが、国家とは何なのか、国境線とは何なのか、といった問いを考え直すきっかけとなりました。
 ― : 先生は、留学など海外経験が長いと聞きました。留学経験について教えてください。
今 村:留学について話し出すとキリがありません。というのも、私は生まれも育ちも日本ですが、中学卒業後の教育は全て海外で受けたからです。さらに、博士号を取る前に海外で10年ほど働いていたので、どこからどこまでが留学なのかよくわからないのです。
 大学はオーバリン・カレッジという、アメリカはオハイオ州のリベラル•アーツ大学に行きました。オーバリンという町にあるのですが、山形市よりもはるかに小さく、レストランも数軒しかありませんでした。着いたときはその小ささにショックを受けたものです。空港からのバスを降りて、「こんな何もないところに4年間も住めるものか」と不安になったことを今でもよく覚えています。
 小さな静かな町でしたが、学期中のキャンパスは学生による様々な活動で常に賑やかでした。音楽が強い大学なので、文字どおり毎日コンサートがありました。ほとんど全てが学生によるものなので無料。また、キャンパスではほぼ毎夜、映画が上映されていました。日本映画で最も上映されていたのは、大島渚だったと思います。私の中ではこのリベラル・アーツというアメリカでの大学生活を思い出して一番懐かしくなるのは充実した図書館と、そして何よりも音楽です。
 といってもアメリカの大学ではひたすら勉強させられました。授業は少人数制で討論が中心なので、課題図書を読んでこないとすぐバレてしまいます。日中は、図書館と教室を往復。夕方に気分転換にふらっとコンサートか映画に寄って、そして暗くなってから寮に戻ってはシャワーを浴びて寝る、という生活でした。
 大学卒業後、他のリベラル・アーツ大学院に進学して修士を取得しました。そして、ニュー・メキシコ州の大学図書館で司書として働きました。つまり、アメリカのリベラル・アーツ大学で私は10年近く暮らしたわけです。大学教育とはどうあるべきか、という問いを私なりに考えるにあたってこの10年間の経験は、決定的な影響を与えました。
 ― :東南アジアを研究するようになったのは、その後のことだったのでしょうか。
今 村:そうです。東南アジアを初めて訪れた時にすでに30歳近くになっていました。日本の東南アジア研究者には大学生時代から東南アジアを訪れているという人が多いので、とても羨ましいです。
 大学を卒業後、司書として働きながら人権団体のボランティアをしていたときに、東南アジアの人権団体が職員を探している、という話があり、飛びつきました。北タイのチェンマイという町に住むことになったのですが、その当時はミャンマーからタイに亡命中の活動家やジャーナリストも多く、彼らから様々な話を聞きました。
 私が特に多くの時間を共に過ごしてたのは主にミャンマーの少数民族の人たちです。ミャンマーでは、第二次世界大戦終了直後、つまり独立直後から内戦が続いています。私が勤めていた団体は、ミャンマーの少数民族の人々に対する人権侵害を記録したので、私もタイ・ミャンマー国境地域で難民から聞き取り調査を行なっていました。
 タイ・ミャンマー国境地域というのは歴史的に少数民族が暮らしてきたところですが、近代になってから両政府から圧迫されるようになりました。難民も少数民族の人が圧倒的に多く、「国家に属さない」人々から様々な話を聞きました。
 また、この難民の人々が皆、複数の言語を操ることに感嘆しました。誰でも少なくとも自分たち少数民族の言語とそれからミャンマー語の二つの言語を話せます。少数民族の言語を複数話せる、という人も少なくありません、多言語環境にあっては複数の言語を話すことが普通なのです。
 やがて私は、大型ダムの建設に関わる人権問題と環境問題に深く関わっていくようになります。この時期ちょうど超大型ダム建設プロジェクトがミャンマー北部なので進み始めたからです。ここでもまた、被害を被るのは建設地付近の少数民族の人々、という構造でした。こういった迫害に対しては、世界各地で反対運動が起こっていたので、それらの運動と連帯するために国際ネットワークづくりに奔走しました。東南アジアでのネットワーク作りも活発だったので、この当時私はアジアの多くの国を訪れて、環境や人権運動に携わる人々から話を聞きました。様々な国で、現地の人々から直接話を聴き、啓発されました。特に中国雲南省の環境団体は、とても創造的かつ効果的な運動を展開していて、感銘を受けました。 その後、中国雲南省の怒江(サルゥイン河)と、そしてミャンマー北部カチン州と二ヶ所で、二つの大型ダム建設プロジェクトが中断に追い込まれます。アジアでは、国家主導の大型インフラ・プロジェクトを止めることは難しいという状況が続いていたので、この二つの事件は現代アジア史においても非常に意義深いイベントであったと認識しています。
 ― :大学院に進学することにしたきっかけはなんですか? 大学院での経験について教えてください。
今 村:少数民族の排除という問題についてもっと根本的に考えなければいけないと思い、大学院で勉強し直すことを決心しました。東南アジアを離れたくなかったので、シンガポール国立大学の博士課程に入院することになりました。2008年のことです。
 ミャンマーで現地調査を行うことを希望していたので、調査地としてすでに20年近く休戦状態にあった北部カチン州を選び、この地域について読めるものを可能な限り読みました。しかし、いざカチン州に移ろうと準備していた2011年に内戦が再発してしまいます。長期現地調査を諦めて、その代わりに短期訪問を繰り返すことになります。できるだけ多くの場所を訪れ、また史料調査を積極的に組み入れることにしました。
 普通こういったフィールドワーク調査では、人々の日々の暮らしを理解していくことを目的に一ヶ所に長期滞在し、現地の言語を習得していくのですが、私の場合は短期滞在の繰り返しになったので、現地の言葉を学ぶことができず通訳に頼ることになりました。また、ホテルにしか泊まったことがないので、村に住み込んだという経験もなく、日々の暮らしについても未だにわからないことばかりです。代わりに、私はミャンマー国内外の多くのカチン人コミュニティで聞き取り調査しました。ミャンマーの隣国の中国とタイはもちろん、シンガポール、クアラルンプール、東京でも調査しました。
 様々な調査方法を組み合わせることを強いられたので、方法的な発見がいろいろありましたが、データをまとめて、論文を書き上げるには時間がかかりました。シンガポール国立大学からの奨学金は5年が限度だったのですが、運よくハーバード大学から奨学金を受けることができました。最終的に東南アジアに10年間住み、2014年に北米に戻ることになります。ハーバードは、2年間研究員(フェロー)として滞在中に博士論文をようやく書き終えました。ハーバードは、図書館がとてつもなく素晴らしかったです。またここでもキャンパスに絶えず音楽や演劇があったことが嬉しかったです。
 2014年に京都大学東南アジア研究所に移ります。この時点で、20年以上に及んだ私の留学(?)がようやく終わったわけです!しかし、家族と電話で話す以外はほぼ全く日本語を話さない、という暮らしが20年以上続けた私にとって日本は「母国」でありながらも「異国」にもなっており、北米に戻る的より、日本に帰国する時の方が正直、緊張しました。とりあえず日本に「留学」してみよう、うまくいかなかったら東南アジアか米国に「戻ろう」(笑)という気持ちだった、というのが正直なところです。
 ― :日本に戻ってきて、研究者として感じたことはありますか。
今 村:日本がベースになって以来、私自身のアジア理解がこれまでより多角的にそして重層的になりました。例えば、東南アジアのベトナムという国を考えるにあたって朝鮮の歴史と比較するという視点は、日本の研究者であればごく当然のことですが、アメリカの大学院でこういった視点はあまり論じられません。欧米をベースにアジアを研究していると、一カ国や一地域を対象とするのに精一杯ですが、アジアをベースにしているとアジア内での繋がりに目が届くようになります。
 といっても、アジアの各国で教えられている歴史や地域研究は、国を単位としたものが圧倒的です。国という単位を前提としては、過去も現在もまともに理解できません。アジアという空間をもっと重層的に理解していくには、様々な地理的枠組みを組み合わせて考える必要があります。そのためには多国籍チームによる研究活動をもっと恒常的に進めていくことが最も効果的でしょう。アジアの人はお互いのことをよく知っていませんから、アジア人研究者が出会い、話し合う場がもっと必要です。アメリカやヨーロッパは遠いですから、日本がこういう場づくりをどんどんしてほしいと思っています。
 ― :海外での調査というのはどのように進めるものなのでしょうか?
今 村:東南アジア研究者のみならず、アジア研究者であれば、まず日本語以外のアジアの言葉を一つ習得し、その言語が話されている地域に精通することが求められるでしょう。この点私は失格者です。ビルマ語もタイ語も習ったことはあるのですがしっかりと身についていません。カチン語も片言程度しか話せません。現地語をしっかりと解せないというのは決定的な痛手です。現地の新聞を読むとか、通訳なしで聞き取りするといったことをできないので、現地の人との頼んだ上での共同作業になります。というわけで、私にとっては現地の人との連携は欠かせません。
 こういった現地調査をできるだけ共同調査という形で進めることを心掛けています。単にお金を払ってアシスタントを雇用するというのではなく、調査について現地のパートナーと議論を繰り返し、お互いにその意味と意義を確認した上で、共同で調査するというアプローチです。時間はかかりますが、こういったやりとりから、純粋に関心を持っている人々に会うことができます。長期的に最も大切なのは、こういう人との出会いです。
 また、できるだけ多様な言語環境で調査するように地域を訪れるようにしています。ミャンマーという一つの国だけで100以上の言語が話されています。私が定期的に訪れるカチン地域だけでも多くの言葉が話されていて、これら全ての言語を操れる人はいません。ミャンマー語を習得すれば確かに多くの人と話すことができるのですが、それでも全ての人と会話できるわけではないのです。また、隣接する中国やインドでも国境地域には、同じ言語を使う少数民族の人々が暮らしているのですが、それらの地域ではミャンマー語は解されません。このような、言語多様性が極めて高い地域、特に国境地域で調査を行うには、現地の人々との関係が最も重要となります。
 最近、私はインドを訪れるようになりましたが、ここでも調査先は北東部という辺境地域です。インドといえど、私がこれまで定期的に訪れてきたのはミャンマー北部、さらに中国南西部とも地続きの地域です。中国研究、インド研究、ミャンマー研究と分割してしまうとこの地続きの地域にどのような人々が暮らしているのか、国境を越えるどのような繋がりがあるのかみえてきません。国境というフィルターをあえて取り除いてみた上で、アジアを考え直すことが必要でしょう。
 ― :国境地帯のいうのはイメージしにくいのですが、どういう空間なのでしょうか。
今 村:これまで繰り返し感じたことは、国境というのは実際に自分の足で訪れて見ないと本当にわからない、ということです。地続きの国境の場合、国境線という線が目に見えるように引かれている所というのは実は少なく、たいていの場所では「この辺り」という漠然としてものです。現地の村人が意識せずに毎日繰り返し越境しているなんてところもあります。そういった光景を目にすると、国境なんてものが存在するのは地図の上だけか思わされます。と同時に、長い歴史を持つ国境というのも確かにありますし、また新しい国境線であるにもかかわらず極めて影響力を持つものもあります。国境にはとてつもない多様性があるのです。この辺のことを現地の役人はよく知っていて、現場の事情に合わせて柔軟に対応しています。しかし、こういった「柔軟な対応」には非合法的な要素が多くあるので、公に書くことが容易ではありません。人文の研究者も、こういった「非合法」的行為の記述や分析というのをもっと柔軟に考えなければいけないと感じています。国境というのは、下手すると外交問題などにも発展してしまいますが、国境に関する理解があまりにも一面的なことが、領土問題がなかなか解決されないことの一因かもしれません。研究者としては、多国籍研究チームなどを作るとともに、多様な国境のあり方を示す必要があるでしょう。
 もっともこういった記述や表現に関しては、研究者よりも一部の映像作家などの方が先をいっているかもしれません。研究者は、これまでほぼ全面的に論文という表現形態に頼ってきたわけですが、これからもそういう時代がずっと続くとは思えません。映像を積極的に取り入れたり、対話や物語で記述するなど、様々な方法が試みられるべきだと思います。
 この点、山形国際ドキュメンタリー映画祭は我々研究者にとって宝の山です。山形映画祭ライブラリーには8000を超える映像作品が保管されているわけですが、この世界にも稀な資料を日々のレベルでアクセスできるのは山形をベースとする研究者の大きな特権です。
 ― :山形大学の学生に伝いたいことはありますか?
今 村:早いうちに国外に出て直接異文化に触れてみよう、そしてできるだけ長く滞在して国外に友達を作ろう、と学生に促しています。欧米に行きたいと学生が多く、その気持ちはわかります。私もイギリスとアメリカに住んだことがあり、現在も定期的に訪れています。しかし、近年アジア東アジアと東南アジアの国々には極めて安く行けるようになり、どう考えてもアジアの方が断然オトクです。 韓国、台湾、香港、ハノイなどへの便は国内便の値段と変わりません。日本を訪れるアジア人も劇的に増えています。アジアの国々であれば、お互いを訪れることが比較的容易です。
 国際情勢がどう変わろうとアジアの国々との付き合いは終わらないでしょう。しかし、アジア人はお互いのことを知らなすぎます。ヨーロッパを訪れると、これがヨーロッパとアジアの大きな違いだと痛感します。アジア人はお互いのことをもっと知るべきではないでしょうか。
 ― : 最後に高校生に一言お願いします。
今 村: 高校生の皆さんには、大きな問いに果敢にチャレンジして欲しいと思っています。よく言われることですが、人文学や社会科学には「常に正しい答え」などありません。時代、社会ごとに「新しい答え」が必要とされます。実は、「問い」自体が、時代、社会ごとに変わります。若い皆さんが、「常識」を疑って、新しい答えを、そして新しい問いを提示してくれることに期待します。

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